食べることはエッチ?
のちにのべるように、食を語ることは性を語ることと同義でもある。
などと、国立民族学博物館館長の石毛直道さんの著書『食事の文明論』(中公新書)の冒頭の文章をパクってしまったわけであるが、このように思ったのは、テレビの食べ物番組を見ていたときのことである。
数人のいい歳をしたおっちゃんたちが、食べ物を食いながら、あーでもないこーでもないなどとうんちくを傾けている場面を見ていて、これって団体でソープランドへ行って、出てきてから、どーだったといっているのとまったく同じじゃんということにと気がついたからだ。
自分だけでこの答えにたどりついたというわけでもないらしい。さっそく、うちにあった石毛さんの食に関する著書をひっくりかえすと、食と性について書かれた文章がたくさん見つかった。読んだ内容がずっと頭の隅に残っていたのだろう。
石毛さんの説によると、食と性を語ることは同じ意味合いを持つという。
まず最初に、食は個人の生命を維持するための行為であり、生殖は種の存続を維持するためにおこなう行為であるとしている。
食と性は万人に平等ではない。どちらも、個人的な感覚がベースになっている。おいしいとか気持ちいいということは、きわめて個人的なことなのだそうだ。
したがって両方ともに大っぴらに語れないところも一緒だという。うまいといっても、その味そのものが直接伝達できるわけではない。うまいというイメージと、その言葉から引き出される個人の味のデータベースへのアクセスをするキー情報が言葉で伝達されるだけだ。
アジア圏--この規定もあいまいだが、どこまでがアジアだと思いますか?--なら、うまいという味覚はアミノ酸とイコールにすることができる。大味の素文化圏なのだ。だから、アジアでうまいというものは、推測がしやすい。
しかし、味覚よりも価値観でうまいまずいが決まるところもある。めったに食べられないものはごちそうとなるのだ。そういうところのうまいものは想像できますか?
ニューギニアの山地では、塩と豚がごちそうだ。どちらもめったに手にはいらないためだ。豚も脂身が最上の部分で、これに舌がひんまがるほどの塩を盛りつけて食べるのが、ごちそうであるという。
「塩と豚、おいしい」となるのだそうだ。塩加減などを考えて調理していたら、塩をけちった、うまくない。ということになる。
これを我々はうまいと思いますかな?
日本でも、砂糖が貴重だったので、ごちそうはとにかく甘くするという地方もある。これもよそ者にはうまいと感じるかどうか。
このように、たんに「うまい」といっても、個人の感覚に帰してしまうのだ。他人と同じである保証はない。
テレビの食の番組でも、料理が写っている間は、うまいのかまずいのかわからない。それをタレントやレポーターが食べるところを見て、表情やさまざまな変化と、味に関するキーとなる言葉によって、見ている側の内部に情報が再構築され、「あー、うまそうだ」とか「ちょっと無理してんじゃないの」とかいう判断がくだせるようになる。
ついでに今まで食べたもののなかから、似たイメージの味を再現したりすることもあるだろう。
こうしてみると、ポルノを見ることも全く同じプロセスによって情報が伝達されていると考えられる。
ならば、食の番組はホルノビデオ、料理写真はポルノ写真と同じだ。今では、テレビをつければ食べ物番組が氾濫している。どこでも、どの時間でも食の番組がないときがない。なんともすけべな状況になったものだ。
食に関して秘するところがなくなりつつある。こうなると、つぎは性に関しても秘するところがなくなっていくのは自然な流れなのだろう。
なんともエッチな時代になりますな。
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