1998年8月17日 (月)

食べることはエッチ?

 のちにのべるように、食を語ることは性を語ることと同義でもある。

 などと、国立民族学博物館館長の石毛直道さんの著書『食事の文明論』(中公新書)の冒頭の文章をパクってしまったわけであるが、このように思ったのは、テレビの食べ物番組を見ていたときのことである。

 数人のいい歳をしたおっちゃんたちが、食べ物を食いながら、あーでもないこーでもないなどとうんちくを傾けている場面を見ていて、これって団体でソープランドへ行って、出てきてから、どーだったといっているのとまったく同じじゃんということにと気がついたからだ。

 自分だけでこの答えにたどりついたというわけでもないらしい。さっそく、うちにあった石毛さんの食に関する著書をひっくりかえすと、食と性について書かれた文章がたくさん見つかった。読んだ内容がずっと頭の隅に残っていたのだろう。

 石毛さんの説によると、食と性を語ることは同じ意味合いを持つという。

 まず最初に、食は個人の生命を維持するための行為であり、生殖は種の存続を維持するためにおこなう行為であるとしている。

 食と性は万人に平等ではない。どちらも、個人的な感覚がベースになっている。おいしいとか気持ちいいということは、きわめて個人的なことなのだそうだ。

 したがって両方ともに大っぴらに語れないところも一緒だという。うまいといっても、その味そのものが直接伝達できるわけではない。うまいというイメージと、その言葉から引き出される個人の味のデータベースへのアクセスをするキー情報が言葉で伝達されるだけだ。

 アジア圏--この規定もあいまいだが、どこまでがアジアだと思いますか?--なら、うまいという味覚はアミノ酸とイコールにすることができる。大味の素文化圏なのだ。だから、アジアでうまいというものは、推測がしやすい。

 しかし、味覚よりも価値観でうまいまずいが決まるところもある。めったに食べられないものはごちそうとなるのだ。そういうところのうまいものは想像できますか?

 ニューギニアの山地では、塩と豚がごちそうだ。どちらもめったに手にはいらないためだ。豚も脂身が最上の部分で、これに舌がひんまがるほどの塩を盛りつけて食べるのが、ごちそうであるという。

「塩と豚、おいしい」となるのだそうだ。塩加減などを考えて調理していたら、塩をけちった、うまくない。ということになる。

 これを我々はうまいと思いますかな?

 日本でも、砂糖が貴重だったので、ごちそうはとにかく甘くするという地方もある。これもよそ者にはうまいと感じるかどうか。

 このように、たんに「うまい」といっても、個人の感覚に帰してしまうのだ。他人と同じである保証はない。

 テレビの食の番組でも、料理が写っている間は、うまいのかまずいのかわからない。それをタレントやレポーターが食べるところを見て、表情やさまざまな変化と、味に関するキーとなる言葉によって、見ている側の内部に情報が再構築され、「あー、うまそうだ」とか「ちょっと無理してんじゃないの」とかいう判断がくだせるようになる。

 ついでに今まで食べたもののなかから、似たイメージの味を再現したりすることもあるだろう。

 こうしてみると、ポルノを見ることも全く同じプロセスによって情報が伝達されていると考えられる。

 ならば、食の番組はホルノビデオ、料理写真はポルノ写真と同じだ。今では、テレビをつければ食べ物番組が氾濫している。どこでも、どの時間でも食の番組がないときがない。なんともすけべな状況になったものだ。

 食に関して秘するところがなくなりつつある。こうなると、つぎは性に関しても秘するところがなくなっていくのは自然な流れなのだろう。

 なんともエッチな時代になりますな。

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1998年9月21日 (月)

宗教とReligion

 世紀末になると、おかしなことを言う人がたくさん現れてくるもんでございます。
 テレビやらマスコミでもとりあげられて、洗脳やらなんやらワァワァワァワァ言うとります。おかしなものでございますな。
 いきなり宗教とか、ファンダメンタリズムなどという言葉も出てきますが、え? ハンダとメンタム? ハンダ付けして手ェでもやけどしなすったんか? などとチンプンカンプンですわ。
 この宗教という言葉は、元々は中国語なんですが、今のような意味で使うようになったんは、日本からやそうです。明治時代になると、欧米の言葉がどんどん入ってきますな。そのなかのReligionの訳語として宗教が使われたんやそうです。それを東南アジア諸国へ提示して、それでいこうやと認められたんやそうですな。
 明治以前の日本では、仏の教えが大きな思想的バックボーンとなっていたわけですが、ここで仏教と書かなかったのは、今日では宗教の下位概念に仏教があると思われているからですねん。
 もともとは、仏教は仏道とも仏法とも呼ばれていて、今でいうところの宗教とは違う考え方を示したものやったそうです。
 極端にはしょれば、仏法で言ってることは「あらゆる生き物は死ぬ、形ある物は必ず壊れる」ということでっしゃろか。これは教えでもなんでもなく、法則なんですな。したがって、現在において宗教ととらえられているものとは一線を画すわけです。信じようが信じまいがそこにあるもんやいうことでしょうか。
 その仏法も、長い年月の間には、解釈の仕方が違うてくるもんが現れてきます。宗の教えとは、いったいなんやいうことですが、宗教の宗という字の元々の意味は、言葉にでけへん根元的な真理のことやそうです。これに対して教は、言葉の助けを借りた教えや説明ということやそうです。
 したがって、言葉にならん真理を言葉で教えるという難しいことになるわけです。せやから、教えを真理にいたる一時的なものとしてとらえ、ウソも方便などと言っていることからも、ひとつのことを説明するのに、何種類もの言い方があってもええことになるんですな。それがいろいろな宗派の教え、宗教という言葉になったんやそうです。これやと宗教は、まったく仏教的な考えいうことになりますな。
 こうして仏法の下位概念としての言葉として宗教はあったわけですが、明治になって、キリスト教やらイスラム教やら、いろんなものが入ってくるようになり、なんぞええ訳語はないかということで、宗教をあてはめたんですな。明治14年刊行の『哲学字彙』という本では、もう宗教がReligionの訳語として使われているそうです。こうして、宗教は仏法をも含むいろいろな教えの上位概念となったわけですねん。
 しかし、英語でいうところのReligionと宗教は違うところがあるんですな。ウェブスターの『二十世紀辞典』でのReligionの定義いうのは「宇宙の創造主(単数または複数)ならびに支配者(単数または複数)として服従されるべく、また崇拝さるべき神的なまたは超人的な力またはもろもろの力を信ずること」やそうです。これじゃ、言葉にならない根本的な真理を言葉にして教えるということとは、大きく違うてますな。
 最近の一般的な考え方やと宗教という大きな枠組みがあり、その中に仏教、キリスト教、イスラム教らのもろもろがあると思われてますが、それやと大きな誤解をまねく要素があるんやないかと思います。宗教とReligionは同一ではないちゅうとこが、ややこしゅうしている原因ですな。
 ここんとこ、宗教とReligionをいっしょくたにして、つぎはぎにした教えと説く人たちがようけ出てきました。ミックスしてうまいんはジュースやらお好み焼きだけやと思いますが、ミックスもんは高くつきますな。せやからお金取るにはええんでしょうか? 

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1999年2月 1日 (月)

社会的遺伝子

 すこし前のテレビ番組になるが、海外で暮らしていた日本人演奏家が、何十年かぶりで日本へ帰ってくるのをドキュメントにした番組があった。
 南米の国に移り住んでいたと記憶しているが、帰国前に、現地でインタビューする部分があった。そのしゃべりかたを聞いて、現代の日本ではなくなってしまった、ある種の懐かしい話し方を思い出した。
 いまから30~40年前の、昔の日本人のしゃべりかたというのだろうか、ちょっとそっけないないような、つっけんどんな感じのする話し方だったが、とても堂々としていて、昨今の、他人に同意を求め、自己確認をしなくてはしゃべれないような話し方とは違った、おもむきのある話し方だった。
 そして、日本へ帰ってきて、1週間ほど演奏旅行をしたあとに、またインタビューがあったのだが、そのときには、おどろいたことに、もう「~じゃないですか」という言葉を使って話していたのだ。
 1週間のうちに、すばやく、現代の日本人となってしまったのである。話し方も、ほとんどそこらへんの人と変わらないものになっていた。
 いやはや、言葉づかいの伝染力はかなり強いものだと思ったね。
 このように、言葉や習慣、風習、ファッションなど、たちどころにひろまっていくものを、行動生物学者のリチャード・ドーキンスは、ミーム(meme)という社会的遺伝子と定義した。
 ドーキンスによれば、遺伝子というのは、自己複製子なんだそうである。自己を複製し、進化していくために、乗物である生物を使っているとのことだ。
 生物であるから、遺伝子がつぎの乗物にうつるには、多少の時間が必要だ。人間なんぞは、2~30年経たないと、つぎの乗物をつくらないから、遺伝子も内心しまったと思っているにちがいない。
 これに対し、ミームはつぎつぎと自己複製して、人の脳に住みつく。遺伝に使うDNAやRNAに相当するのは、言語、紙に書かれた文字、音楽、テレビ番組といったものだ。
 ミームのなかには、非常にはやく伝搬するものがある。あまりの急激ぶりに、遺伝子というよりも、ウィルスと呼んだほうがいいのではないかというはなしもある。
 ミームというウィルスに感染し、発病すること。そういったものを流行というのだろうな。歌にしろ、服装にしろ、食べ物にしろ、流行っているとなると、たちどころにみんなかぶれる。まるで、インフルエンザかなんかにかかっていくようだ。
 インフルエンザなら、ウィルス危険、注意ということになるのだが、ミームの場合は、まったく無防備だ。
 テレビによる電波感染、活字による出版感染など、メディアを媒介として、またたく間に拡がっていく。口コミで感染していくというのもあるな。そして、みなが同じ症状を呈するようになるのだ。
 むかしは、もう少し抵抗力のある人たちがいたように思えるが、いまでは、あっという間にミームの餌食だ。そして、同じ行動へと駆り立てられるのだ。
 でなけりゃ、特定の映画、特定の歌手、特定の本ばかりが売れるという状況の説明がつかない。だが、それで勝ったと思っているなよ、そこのミーム。
 遺伝子が生き残っていくためには、多様性を持つことが重要だとされている。流行りものばかりに飛びつかせていると、いつかは一様になってしまい、その先に多種多様に自己複製していくことがむずかしくなる。
 流行を追いかけさせるタイプのミームの寿命は、案外短いと思うぞ。と、別のミームが言ってるとか言わないとか。これも生存競争か(笑)。

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