1998年5月18日 (月)

意識はどこから?

 近年、脳のことがだいぶわかってきた。

 それによると、脳のなかでは、ニューロンという神経細胞があり、シナプスという中継点でつながっている。ニューロンどうしは軸索という神経繊維でつながっていて、この軸索に電流が流れ、ニューロンの端、シナプスへくると、そこで化学物質を分泌し、それをうけたレセプターという受ける側のシナプスが電流を発生させ、また軸索を通って電流が流れていくという仕組みだ。

 この電流の流れる現象は、非常に鋭く尖った波形として観測されるために、発火、インパルス、スパイクなどと呼ばれている。

 この発火が、脳内のニューロンでおこり、あるパターンをつくることで意識や思考が起こると考えられている。

 どの神経が刺激をうければ、どうなるかということかなりわかっていて、『新世紀エヴァンゲリオン』でも取り上げられていたA10神経は、快感、喜びをつかさどり、創造力の根元とされている。

 これだけ研究がすすんでいるのに、答えられない根元的な問いがある。意識はどうして生まれるのか? ということだ。

 脳内のニューロンの発火により、あるパターンが生まれ、そのパターンが意識や思考を発生させるとしよう。すると、そのパターンの発火は、どうして起きるのかが説明できないのだ。

 物がぶつかってきたときや、転んだときに手がでるような、外界からの刺激によって引き起こされる現象をのぞけば、手を出す行為というのは、思考によって引き起こされる。単純には、そこの物をとろうと考え、発火がおき、それが神経繊維を通って手に伝えられると考えてしまうが、実際には、発火が起き、物をとろうと考え、それから物をとる信号がだされることになる。

 なぜ物をとろうという思考の発火パターンが物をとろうと考える前に起きるのか、説明がつかないのだ。

 こうした問題に、数学者で物理学者のロジャー・ペンローズがある仮定を1989年に『皇帝の新しい心』という著作で発表したものだから、最近の意識をとりまく研究者や哲学者の間ではたいへんな騒ぎになっているという。

 ペンローズはイギリスのオックスフォード大学の教授で、1967年にはあのホーキングと共同研究をして、ブラックホールの特異点定理を発表した。ホーキングはこの後、ペンローズのブラックホールからエネルギーがとりだせるとする、ペンローズ過程を発展させ1974年にはブラックホールの蒸発理論を発表した。こうしてみるとペンローズとホーキングは仲がよさそうだが、親友でありライバルであるという複雑な関係だ。

 このペンローズが意識についてのひとつのアイデアを思いついた。それは「計算不可能性」ということだ。意識が起こる前にニューロンの発火があるというところから、ニューロンの発火はアルゴリズムによらないものだとしたのだ。

 アルゴリズムは計算で説明ができる。ならば非計算性があることを証明しなければならない。現在の物理学や数学では、非計算性の証明ができないから、新しい理論である量子重力学によってしか説明できないとしたのだ。

 この量子重力学は、現在では完成はおろか、すすむべき道もはっきりしていない理論だ。しかし、量子と重力を統合して扱える理論がないと意識の説明はできないという。

 脳の中の、どこで量子重力理論が必要な現象が起きているかというと、ニューロンをつなぐ軸索だ。これはマイマロチューブルと呼ばれ、チューブリンというタンパク質が集まってできている。

 マイクロチューブルは直径25ナノメートルの中空の円筒だ。そして8ナノメートルのチューブリンによって構成されている。このチューブリンは2量体といって、アルファチューブリンとベータチューブリンという性質の異なる2つの1量体からできている。この中の電子の状態がコヒーレントな量子的重ね合わせになっているという。とはいってもなんだかよくわからないが。

 このチューブリンの量子的重ね合わせの段階を前意識過程とし異なる時空での量子的状態となっている。これが500ミリ秒ほど続き、しきい値に達すると、波動関数の収縮により古典的状態、すなわち現在の物理学で説明できる状態となり、電流が流れ、ニューロンの発火をうながすというのだ。これによれば、意識は500ミリ秒ごとに現実を認識することになり、連続していないことになる。

 本当なのかどうかわからないが、ペンローズが言っているというところが大変なのだ。このマイクロチューブルのくだりは、非計算性を説明できるのは量子力学しかないので、それが実現できる量子的効果を発揮できる構造を脳に求めた結果のことで、マイクロチューブルは肝臓など身体の各部にあるし、このサイズでは量子的効果を発揮するには大きすぎるという指摘もある。

 生物学者や哲学者、物理学者はこぞって反対しているが、ペンローズは有無をいわせぬ方程式や数式にまとめこもうとしているので、これが証明されればえらいことになる。

 物質とエネルギーの関係をアインシュタインがE=mc2という簡潔な式で表してしまったように、数式には暴力的ともいえる絶対性がある。

 さらにペンローズはニューロンの発火は、影にしかすぎないと言っているのだ。これは別に絶対的な世界があり、量子的時空をとおしてそことつながっていて、そこから意識を持ってきているというのだ。

 だから、意識は別の世界から発見されるもので、その過程は非計算的だが確定的であるという。マイクロチューブルのことより、こちらのほうがあっけにとられる考えだ。

 昔、落語家の桂枝雀が、元々は人間の心は大きな餅のようにひとつだった。それが小さく分けられ、粉をまぶされて薄皮のある小さな餅になった。もうおたがいにくっつくことはないが、落語によって、もういちど蒸しあげた状態にすれば、薄皮が溶けてくっつきあうことかできるんとちがいますやろかと言っていたのを思い出した。

 なんとも情けないが、理科系に挫折したオレの理解力なんてこんなものである。
 

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1998年6月 8日 (月)

ニュートリノに質量

  謎の素粒子であるニュートリノに質量があるという最終結論がだされた。日米共同研究の成果だが、その観測に大きな威力を発揮したのが、岐阜県神岡鉱山の地下1000メートルにあるスーパーカミオカンデだ。

 神岡というと、龍太郎とつづけてしまいそうになるが(漢字は違うけど)、そこにあるスーパーカミオカンデとその前身のカミオカンデには、取材でいったことがあるので、そういう場所で世界的な発見があったということは、なんだかうれしい気分だ。

 最初に神岡へいったのは1990年。MSXマガジンで連載していた『ハイテクワンダーランド』の取材としてだ。

 トロッコに乗りこみ、地下1000メートルをめざす。坑道は折れ曲がっていて、光のまったく届かない世界だった。世界中の天文学者から、真の暗闇といわれていたそうだ。

 このなにも見えない坑道を抜け、中継基地からトロッコの線路を5分ぐらい歩いた場所にカミオカンデはあった。もし線路を歩いているときにトロッコ電車がきたら、トロッコは時速20キロぐらいなので、とりあえず走るということだった。インディ・ジョーンズのように、天文学者には体力も必要だ。

 カミオカンデはもともと陽子崩壊を検出するためにつくられた装置だ。3000トンの超純水がたまっている巨大なタンクと、そのタンクのまわりに1000個の光電子倍増管があり、陽子崩壊のときに発生するごくごく弱い光を検出しようというものだった。

 この光電子倍増管は浜松ホトニクス社製で、光子1個を検出できる能力がある。直径40センチもあるガラス製だが、このガラス管は職人さんが1個ずつ息を吹きこんでつくっているそうだ。なんだか立ちくらみのしそうな話だ。この光電子倍増管の性能のおかげで、1987年にマゼラン雲であった超新星爆発のときに発生したニュートリノをとらえることができたのだ。

 ニュートリノは中性をあらわすニュートラルと、イタリア語で小さなものという意味のリノを合体させてできた言葉で、中性微子と訳される。ここでいう中性とは電気的に中性ということだ。

 この中性という特性と、当時は質量もないと考えられていたので、他の物質とはほとんど反応もせず、その姿をつかまえることが非常にむつかしいとされていた。まるで幽霊のような粒子と考えられていたのだが、なかにはへそ曲がりなやつもいて、非常に低い確率だけど、他の物質と反応をする場合もある。

 そこで3000トンの水だ。この水はノイズの発生を防ぐために水素分子と酸素分子に限りなく近い。3000トン分の水素分子と酸素分子というと途方もない数だ。これだけの数の分子はさらに原子で構成されているから、またまた途方もない数になる。これだけ数があれば、どれだけ他の物質と反応しないといっても、しちゃうやつがいるわけだ。そのときに、水中でチェレンコフ光という光を発生する。この光を観測すればニュートリノが検出できるというわけだ。

 カミオカンデの成功により、より大きな検出装置がつくられた。それがスーパーカミオカンデだ。こんどは5万トンの水と1万1000個の光電子倍増管で、より精度の高い観測ができるようになった。

 スーパーカミオカンデには1996年に取材にいってきた。今度は、施設までクルマで入れるようになっていた。坑道を走るほうがディズニーランドのアトラクションよりも楽しかったので、ちょっとがっかりしたものだ。

 観測施設もきれいで、最新のコンピューターが所狭しとならんでいる。時代の流れを感じる光景だ。昔は手作りの基板がむきだしの装置を使っていたのにな。

 しかし、その装置の精度で、ミューオン・ニュートリノについて精度の高い観測ができたのだ。スーパーカミオカンデに上空からふりそそぐ、陽子が大気へ衝突して発生するミューオン・ニュートリノのうち、電子ニュートリノと、ミューオン・ニュートリノの割合は、1対2で、その生成過程の理論値によく合うのだが、長い距離をへて地球の裏側からやってくるニュートリノでは、その割合が1対1近くになってしまう。

 ニュートリノに質量がないなら、ニュートリノ振動(よくしらない、各自調べてねん)も起こらず、地球の裏側からやってくる電子ニュートリノとミューオン・ニュートリノの割合は、上からやってくるのと同じはずだ。だが実際には、地球の裏側からのはミューオン・ニュートリノが半数程度の数に減ってしまっていた。これはニュートリノ振動を起こした結果と考えられるという。こうして、ニュートリノには質量があるという検証結果となった。その値は予測値よりかなり小さなものになるという。

 ニュートリノに質量があるとなると、現在の宇宙論や理論物理学のうち、あるタイプのものは根幹から考え直さなくてはならなくなる。これにより、宇宙は「閉じた宇宙」になったし、素粒子の結びつきを説明する標準理論や大統一理論も、新しい理論が必要になった。

 ニュートリノに質量がみつかったからといって、すぐにわれわれの生活になんらかの変化があるわけではないが、神岡は世界的に有名な土地となった。あとは神岡名物ニュートリノ饅頭とニュートリノ最中といったニュートリノ土産物に期待したいところだ。

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1998年8月 3日 (月)

ハードボイルドだど

 7月29日の新聞に『たまごの願い』という広告がだされた。最近、食中毒の元凶として悪玉視されている卵について、正しく理解してもらおうという内容だ。

 卵にはサルモネラ菌がいて、食中毒を起こすので食べないようにしようという話が、消費者のあいだに広く浸透していることを憂慮してだされたものらしい。

 すべての動物には、腸内に寄生している菌がいる。われわれの腸のなかにだっているのだ。これらが肉や卵についている場合がある。他の動物の肉や卵を食べている以上、そうした菌が体内にはいることをいつも想定していないといけないだろう。

 実際、卵5000個~10000個にサルモネラ菌が1~2個の割合でみつかるそうだ。だが、必要以上に心配するものではない。対処方法ははっきりとしていて、ちゃんと加熱すれば菌は死ぬことになっているからだ。

 これで、こわがって食べなくなったり、使わなくなったりするのが困るのだ。75度以上で1分間加熱すれば菌は死ぬ。この75度以上というのは、黄身が固まる温度だ。ハードポイルドといわれる固ゆで卵にすればいいのだ。

 なのにである。ある食堂ではオムライスをやめ、またある菓子店では、卵を使ったケーキ類をつくるのをやめたという。

 その店の店長が、食中毒の危険性のあるものは客にだせないとインタビューに答えていたが、その店のオムライスは卵を生で使うのだろうか? 半熟状態のオムレツは、サルモネラ菌がいた場合に危険がある可能性があるだろうが、十分に加熱してしまう卵料理まで怖がってもしかたがない。

 ケーキにいたっては、200度近いオーブンで15~20分近く焼くのだ。中まで火は通るわけで、これで菌が生き残るとは思えない。

 カスタードクリームがつくれないので、シュークリームもやめたとのことだが、カスタードクリームも加熱しないものなのだろうか? 牛乳と卵と小麦粉をぐつぐつ煮ながらかきまぜてつくるものではなかったか? 熱は十分に通っていると思うが、まちがっていたらもーしわけない。

 こーなると、月見そばや月見うどんのほうがあぶない(実際に中止した店があるそうだ。やれやれ)。卵が半熟状態のカツ丼や、親子丼はどーするのだ? ゆで卵や目玉焼きでさえ、黄身は半熟で供されることが多い。

 ゆで卵の黄身がねっとりとしているのをスプーンですくい、目玉焼きの黄身に口をつけてチューチューと吸う。オムレツやカニ玉は切るとなかからトロリとした半熟部分がながれだしてくる。

 ところが、おれは、そういうものを食べると胃が痛くなるのだ。半加熱卵タンパク質アレルギーかもしれない(そんなものがあるかしらんが)。そこでゆで卵はハードボイルドにし、スクランブルエッグよりは炒り卵、オムレツよりは薄く焼いた卵を年輪のように巻き付けていくだし巻卵のほうが好きだ。

 ついでにいうと、たらこも明太子も焼いてしまう。さすがにイクラは焼けないな。そういうことをしていると、そんな食べかたをするのは味音痴という目で見られてしまう。なにがいかんのだ

 食べ方についてはこれぐらいにするとして、このままでは、卵の消費が少なくなり鶏卵農家の生活も成り立たなくなる。生活苦や破産などのひどい状況となってしまうことも考えられる。

 卵を使わないというのは、客の健康を気づかっているかのように思える行為だが、その本質は違うところにありそうだ。これは村八分や差別といった考え方と根本的には同じものだと思うのだ。食品の安全というよりも、穢れという発想でしかない。困ったものにはフタをしてしまえという考え方だ。

 まぁ、夏場の生ゴミにかぎっていえば、ちゃんとフタをしてもらいたいと思うが。 

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1999年12月13日 (月)

時は気の持ちよう?

 時計はアナログにかぎるという人がいる。しかし、時間はアナログ的なものなのだろうか?
 年、月、日、時、分、秒といった概念はデジタル的な考えだ。夜中の12時をすぎれば日付が変わるし、時計の針が一回りすれば時が加算される。しかし、どうして59分59秒のつぎが60分だと断言できるのだろうか。
 どうして12月31日のつぎは1月1日で、1月31日のつぎは2月1日と言いきれちゃうのであろうか。
 時間に縛られない生活をしていると(締切は守れ--編集者注)、時間はずるずると淀みなく流れる川の流れのように美空ひばりなのだと感じられる。明日が何日であろうと、どうでもいいやと思うものだ。
 だから、1年は毎日の積み重ねだ。正月がきてもどうということはない。ずるずると続いていく通過点にしかすぎないからだ。したがって、2000年になると聞いても、とくに感慨はない。
 誕生日がきて、歳を取るのは、自分の生まれた日付を1年という単位で計測してめぐってくるものだが、この1年が、過去の1年と同じ長さであるのか、また将来も同じ長さなのかというと、最近の計測では違うという説がある。
 元来、時間は地球の自転から定められた。基準となるグリニッジから15度ずれた場所の時を1時間とし、1周分360度で24時間とした。それを細かくしていき、分や秒で表したのだ。
 ところが、時計が発明され、その時間がどんどん正確(ってなんだ?)になっていき、ついには水晶の振動から時を刻んだり、原子の振動から時を刻むようになると、地球の自転とはあわなくなってきている。
 現在のもっとも正確に時をきざむ時計では、地球の自転が1年に1秒ずつ遅れていくことがわかってきた。逆に考えれば3600年前では、今の1日の長さより1時間短かったのかもしれない。7200年前では2時間、10800年では3時間と、こうして計算していくと86400年前には24時間となり、地球の自転時間が0になってしまうという、なんだかわからん結果となるが。
 古~い過去はさておき、最近でいえば、オレが生まれた時から、同じ日付、同じ刻が毎年めぐってきているが、今年は誕生の時からは43秒遅れていることになるハズだ。還暦の歳には1分遅れることになるのだ。
 時間をアナログ的に表記することは不可能だ。1秒99のつぎが2秒などといっても、この単位はもっと細かくしていけそうだ。1秒99999999999というのが現実的であるかどうかはわからないが、時間はどこまでも細かく割っていけると思われがちだ。
 ところが、時間には最小の単位がある。プランク時間というのがそれだ。10のマイナス44乗秒が量子力学的には最小の時間の単位となる。これより短い時間はない。
 仏教の方でも時間の最小単位がある。これを「刹那」という。いろいろな経典によれば、その長さは13.3ミリ秒から、0.13ミリ秒とさまざまであるという。しかし、共通しているのは、時間は連続していないという認識だ。小さな単位を飛び越えて、時はうつろっていく。
 時が連続してないと知っているから、今日は悪くても明日はいいなどと考えることができるんでしょうかね? 来年はどんな年だ?

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