1998年4月13日 (月)

賞味期限

 最近の食品には、賞味期限や品質保持期限といったものがついている。この期限がなかなかくせ者だ。これらの食品を冷蔵庫にしまっとくと、つい食べるのを忘れてしまうことがある。

 野菜など、すぐに食べないとみるみるうちに変色していくものはそうでもないが、最近のビニールパックされた食品は、中途半端に期限があるものだから、つい、まだまだ大丈夫ということになってしまう。

 期限切れまで、まだ10日もあるとか、2週間、1か月あるとわかると、その場で気がついても食べようとはしない。そのまま冷蔵庫の棚にもどしてしまうのがいいところだ。

 そしてふたたび、それに気がついたときには、なぜか確実に消費期限がすぎている。まだ大丈夫と思うと、毎日ながめているのに、期限の切れるのに気がつかなくなってしまうのだろうか。

 こうなると思案することになる。

 しりあがり寿さんのマンガに、貧乏な若者の話があって、賞味期限が6か月ぐらいすぎている食品を、部屋にきた友人がみつけて「ぎょ!」っとするくだりがあった。

 その若者はフッと息をはきながら「この世において賞味期限などになんの意味があるのだ」というようなことをつぶやき、それを食べてしまう。

 そんな絵のコマが脳裏をよぎり、期限切れ2日~3日ぐらいなら、まだ大丈夫かもしれないと開けてみることにする。

 豆腐は期限3日すぎていたものでもなんとか大丈夫だったが、さすがに1週間すぎているものは、おぇ~という匂いがした。こりゃまったくダメだ。納豆の1週間すぎているものは、もともと腐ってるんだからとかいいつつ食べてしまった。

 牛乳の10日すぎているものは、ドロドロとしたものになっていた。ヨーグルトでもない得体のしれないものに変化していた。

 しかし、期限が切れているのがわかっても、どうしようかと悩むものもある。1か月ぐらいすぎているのにビニールのパックには変化がない。かといって、さすがに開ける勇気もなく、またそのまま手つかずにしてしまっているハムのパックや、2年前に賞味期限が切れたレトルト食品もある。まだ袋もふくらんでないし、かといって食べるのもどうかという状態で、さらに年月を重ねていきそうな気配だ。

 気にしていると、まだ時間があるが。時間があると思っていると確実に期限がすぎてしまうのはどういうわけだ。

 これって仕事の締め切りとおんなじじゃん。

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1998年4月20日 (月)

作者不詳のデザイン

『くだんのアレ』を読んだ。これはとり・みき著の『事件の地平線』(筑摩書房刊1100円+税)に収録されている作品だ。
 どんな内容なのかは、本を読んでもらうとして(面白いから買って読みなさい)、そのなかのエピソードに、「オジギビト」のルーツさがしのエピソードがある。

 オジギビトについてもくわしくは本を読んでもらいたいが、工事現場の注意書きの看板に描いてあるマスコットのことだ。これが、いつどこで生まれ、どのように広まったのか、だれが描いたのかということは長年の謎とされていたらしい。

『くだんのアレ』のなかでは、いちおうの解決をみるのだが、さらに謎は深まっていく。

 なにも友人の本の宣伝をしているわけではないぞ。これと似たケースになりそうなことをしたので、忘れないうちに、おぼえていることを書きとめておこうという魂胆なのだ。

 このWebでも紹介しているが、オレの描いたもののなかに「エスカレーターのステッカーの絵」というのがある。これも、すでに謎のものになっているのかもしれない。

 これは、20歳より2年間勤めていたデザイン会社で描いたものだ。その会社はパブリシティ・アドベンチャーズという会社で、市ヶ谷にあった。

 電通の制作会社という立場で、ハウス食品、住友3M、朝日生命、三菱鉛筆、丸石自転車、石丸電気、秋葉原電気街などの広告物をてがけていた。

 チーフのデザイナーは、岡山県で土木作業員をしていたが、腕を骨折したために東京へ出てきてデザイナーとなったという人で、年に2回しか風呂にはいらない人だった。

 この人が営業もしていて、会社へ戻ってくるのが夜の6時~7時ぐらい。ここから仕事が始まるので、とうぜん帰れない生活がつづいていた。いちど出社すると1週間~10日は会社に居続けることになる。

 それでも比較的ヒマな時期はあるもので、帰れるときもあったが、その日もそういう日だった。8時前には帰ろうと思っていると、チーフが会社へ戻ってきて、オレが呼ばれた。心のなかでは「あー帰ろうと思ってたのにー」状態だが、勤め人である以上、いうことは聞かねばの娘だ。

 エスカレーターの注意書きステッカーにするから、このキャラクターを元にして、イラストを完成させよという命令だった。

 みれば、ノートのページに鉛筆で描かれた男の子の絵が描いてある。三菱鉛筆の事務の女の子が描いたものということだった。

 これをサインペンでクリンナップして、親といっしょのパターンや、エレベーター用など、合計6種類の絵を、速攻で完成させた。今日は帰るんじゃけんねモードなので素早い所業だ。こんなに長く使われるとは夢にも思ってなかったので、気合いもなにもない絵なのが、今となっては恥ずかしい。

 これをチーフに渡して、デザインされてステッカーとなり全国にばらまかれたというのが、こちらの知りうるいきさつなのだが、もうすでに謎の部分がある。

 エスカレーターのステッカーは「菱電サービス」(現三菱ビルテクノサービス)という保守をしている会社から頼まれたものということはわかっているが、なぜ三菱鉛筆の事務の娘が絵を描いていたのだ?

 よくまちがえる人がいるが、三菱鉛筆は三菱グループとは別の会社なのだ。三菱電機、三菱重工、三菱自動車など三菱グループ系列の会社は数多くある。エスカレーターも作っているから、その保守会社としての菱電サービスは、三菱電機の系列会社でれっきとした三菱グループだ。

 しかし、なぜ、キャラクターを描いたのが系列会社ではない三菱鉛筆の社員だったのか? 女子事務員と言われているが、キャラの元デザインは誰だったのか? すでに20年も経ってしまっているので、関係者が会社に残っている確率も低く、調べることはむずかしそうだ。こんなことは社史にも残るわけがない。

 そして、それを清書をしたオレがいて、こちらも独自のキャラを足したり、エスカレーターに顔をつけるなどの追加をしている。誰の作というのがいいのだろうか?

 もしそのステッカーに興味を持ち、ルーツをさぐりはじめても行き詰まってしまうに違いない。三菱ビルテクノサービスにいきさつを知っている人はいるのだろうか? そこからたどり着くのはどこまでなのだろうか?

 20年という時間が、人の交流をなくしてしまっているし、当時の担当者は定年となっているかもしれない。

 いやはや、なんともたいへんなことになりそうだ。自分が関わったものでさえ、これだけわからなくなっているので、とりさんも苦労したことだろう。それでもスッキリとは解決しなかったようだし……。

 町中にあふれている作者不詳の意匠、看板とか標識とか。毎日みて慣れ親しんでいても、そのルーツをさがそうとすると、深い闇に飲み込まれてしまうのかもしれない。

 そう考えると、身の回りのほとんどのものは名もなき人々の産物だ。誰が作ったものなのかわからない不安がある。その不安感から逃れるために、最近は名前入りの農作物やブランド物を欲しがるんでしょうかね?

 

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1998年4月27日 (月)

電話におけるマーフィーの法則

 よく電話がつながらないと言われた。また、いつも留守にしやがってとも言われている。

 基本的には家にいて仕事をしているので、だいたい家にいるし、それほど長電話ばかりしているわけではない。なにかのまちがいではないかと思っていた。

 ところが、昨年の5月に電話をISDNに変更して、その謎がわかりかけてきた。すなわち「電話をかけたり、外出をすると電話がかかってくる確率は部屋でごろごろしているよりも70パーセント高くなる」というマーフィーの法則が働いているのだ。

 もっとも、この法則はいま作ったので、ヨネダの電話に関する法則と名づけるべきものなのかもしれない。

 ISDNでは、電話が2回線使えるようになる。最初は電話をしながらFAXを送ったり、通信をしながら電話をしたりして、なかなか便利なものだと思っていたが、どういうわけか、電話をしていると電話がかかってくることがわかった

 いままでなら、お話中となっていたわけだだが、電話が2回線あるので、話をしているといきなり電話が鳴りだす。こうなると、事務所にひとりでお留守番状態となり、2本の電話の間でオロオロとするはめになるのだ。

 先の電話の主にちょっと待ってもらって、後の電話にでると、FAXの通信音が鳴り響くこともある。こんなときは「うわー」である。FAXは最初に出た電話にしかついていないから、ピーガロガロガロという音を聞きながら、切ってしまうしかない。

 話を続けている相手に、いちど切ってもらってかけ直すのも失礼かと思い、そのまま話していると、またピーガロガロガロと電話がかかってくる。自動送信なので、機械が丁寧にかけ直してきやがるのだ。機械相手にちょっと待ってーなとも言えないので、再送信回数との戦いとなる。受話器を持ち上げて、すぐ切っていると、そのうち人間からの電話もかかってきて、しまったと思っても後の祭りだ。

 そんなわけで、2台めのFAXを買ってしまった。留守電つきでも2万円しないとは、いいご時世になったものだ。これで、2台の電話には留守電とFAXがつくという、ただでさえ狭い部屋のなかで場所を浪費する所業となった。

 こうして万全の体制を整えると、あまり2本の電話がだぶってかかってこなくなるから不思議なものだ。そのかわりといってはなんだが、ちょっと外出したり、トイレに入ったり、風呂に入ったりと電話にでられないときにかぎって電話がかかってくるようになった。

 コンビニやスーパーへ買い物にいってる間とか、すごいのは3階下にある入り口のポストへ郵便物を取りにいっている間に電話がかかってきていることがある。

 留守電にメッセージが残ってないと、誰なんだよーとやきもきするばかりだ。ひょっとして新規の仕事を逃してしまったかもということが頭をよぎる。

 最近では、仕事の連絡はEメールを使うことが多いのだが、通信を始めたとたんに電話がかかってくることもある。その電話にでて、通信しているのを忘れ、ついインターネットにつなぎっぱなしということもあった。電話料金を考えると冷や汗がでてくる。

 こうしてみると、お話中と外出ばかりというのも納得できる話だが、どう考えても、そこをねらって電話がかかってくるとしか思えない。1日中家にいて、ゴロゴロしていると、なぜか電話は1本もかかってこないのだ。

 どうも電話には物の怪が棲んでいて、悪意を持って人間の様子を観察しているとしか思えない、そんなわけで、なんとなく電話というのは苦手なのだ。

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1998年5月11日 (月)

夢見た光景


 子どものころ、なりたかったものといえば電車の運転手だが、行きたかった場所は宇宙だった。

 生まれた年には、世界初の人工衛星スプートニクが打ち上げられているので、成長の過程と米ソの宇宙競争がシンクロしていたといってもいい。

 そうした影響で、宇宙ものやSF映画(むろんテレビ放映だけだが)を見るのが好きだった。そのなかでもとりわけ好きだったのが、宇宙船のコクピットと電子計算機だ。わけのわからないメーターやライトがちかちかとまばたき、とても幻想的な光景に思えた。

 段ボールでコクピットをつくり、1日中その中で遊んだりもしていた。コクピットは穴を開けたり、切り抜いたりした部分に色セロハンを貼って、外の光でライトが点灯しているようにみえるようにしていた。

 窓の部分には、地球の絵などを貼りつけて、臨場感を増すようにしていた。このころのSFものでは、ロケットは垂直離着陸なので、姿勢としては上向きになる。イスを横に倒して、上向きになるように座っていたのだから、バカなことといったらない。

 カウントダウンなんぞをしてババババなどと噴射音を口でいい、宇宙遊泳などと称し、部屋の中をフニャフニャとしたカッコで歩いていたのだ。いまやれといわれたら躊躇してしまうような行動だ。

 そうこうするうちに、小学校5年生のときには『2001年宇宙の旅』が公開され、翌年には人類初の月着陸がおこなわれた。

 すぐに「こちらヒューストン、ピー」などと会話のあとにつけてしゃべる。子どものころから、すぐにもかぶれやすい性格といえる。

 これで、大きくなったときには宇宙へ行けると思ったが、年齢を考えると絶望的に年寄りになっていると悲観したものだ(もーすぐ、その歳だけど文句ある?)。

 宇宙へはPAN AMで行くはずだったのに、つぶれてしまうし、2001年を目前にしても、木星へ行くことはおろか宇宙ステーションもできていない。

 宇宙開発のペースは落ちてしまったが、いつのまにか、電子計算機もとい、コンピュータは広く普及し、家には8台ものコンピューターがころがっている始末だ。それらのうち3台はL字型に並べてある。そのまわりにはシンセサイザやファックス、モデム、TAなどがところ狭しとならんでいる。モニタは3つある。

 温度や湿度を管理された無機的な部屋で、部屋いっぱいの巨大コンピュータを操作すると考えていた昔からは想像もできない。和室にコンピュータがならぶさまは松本零士のマンガの世界のようだ。

 先日、MIDIで曲を鳴らしているときに部屋の蛍光灯がちかちかと点滅しだした。寿命らしい。取り替えるために部屋の電灯を消すと、宇宙船のコクピットが眼前にひろがっているではないか。

 暗闇のなかで、ふたつのモニタでソフトが稼働し、LEDやらライトパネルが忙しく点滅している光景は、子どものころに夢にみていたコクピットの光景そのものだった。

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1998年6月15日 (月)

プロの仕業

  下北沢に住んでいたころの話だから、いまから10年ぐらい前になるだろうか。朝の8時に永田町へいかなければならなくなった。

 時間は絶対厳守とのことだ。遅れてきたらゆるしませんという強い態度で集合時間をいいわたされた。

 なんで8時にいかなければいけなかったのか忘れたが、なんかの取材ででかけるための飛行機か電車の時間に間に合うようにするためだったと思う。

 当日の朝、はやくも出遅れた。電車を使って下北沢から永田町へいくには、徒歩の時間もふくめて45分ほどかかる。7時15分前に家をでていればいいのだが、すでに7時25分になっていた。オレは「絶対に」という状況に弱いのだ。

 頭のなかで、さっそくシミュレーションがはじまった。下北沢から渋谷までがふつうなら10分ぐらいだが、朝のラッシュ時だ。12~15分は考えないといけない。渋谷についてから乗り換えに5分~8分、渋谷から永田町までが15分ぐらい、さらに徒歩10分という時間をあわせると絶対に間に合わないという答えとなった。

 徒歩部分を走ってもダメだ。こんなことを考えつつ駅についたときには、すでに7時30分。もうダメだ。

 ずぇーーーったいに遅れてきたらゆるさんけんねという指令に、タクシーに乗ることを決意した。そのまま駅を通りすぎ、タクシーの走っていそうな道へ歩いた。

 タクシーにしても、朝の小田急線の踏切は開かないという不利な条件がある。タクシーのきそうな道から、永田町への経由地点、代々木方面に向かうには小田急の踏切を越さなければならないのだが、なんと1時間のうちに5分しか開いてないそうだ。おかげで、道路にもクルマの数は少なく、なかなかタクシーもこない。

 やっとの思いでタクシーをつかまえて乗りこんだときには、7時35分になっていた。

「永田町まで」と乗りこむと同時に言った。さらに「8時までに着きたいのだが……」とつづけた。

 すると運転手が「そうだよな。電車に乗れば260円ぐらいでいける場所へ、その何倍もの金を払うのだから、なにか理由があるわけだよな」と言うではないか。

 無理だから降りてくれと言われるのではないかとヒヤっとしたが、つづいた言葉は違った。

「こっちもプロだ。なんとかしましょう。そのかわり、道はこちらにまかせてもらいたい。遠回りになって金額もかかるかもしれないが、時間にはつくようにするつもりだ。これで異存はないか?」というような内容だった。こちらに異存はない、走ってもらうことにした。

 タクシーは住宅街のなかを進みはじめ、どこを通ったかわからないが、小田急の踏切を渡らずに代々木公園わきの道へ出た。そのまま、また裏道を抜け永田町に着いたときには、8時2分前だった。ぎりぎりセーフだ。

 3000円台という、電車賃の10倍以上という金を払ったが、プロの仕事ぶりをみせてもらったためか、高いとは思わなかった。

 最近、プロの仕業をみない。タクシーに乗れば、道を知らないのでお客さん教えてと言われる始末だし、店員は商品の知識がない。いろいろな場面で無理難題(でもないと思うが)を言うと、まず言い訳だ。つぎに愚痴になる。

 プロっぽくない仕事ぶりを見るにつけ、あの運転手を懐かしく思い出してしまう今日このごろだ。

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1998年6月22日 (月)

1987年から10年後

 オレが1987年に発表したマンガがある。そいつは、コンピューター・ミュージックの雑誌に発表したものだからMIDIと通信の未来を予測する内容のものだった。設定は10年後、1997年を舞台にした物語だった。

 そのマンガでは1997年のコンピューター・ミュージック機材や状況を予測していた。たとえば手のひらサイズのコンポーザーがある。音声入力によりMIDIデータに変換、オーケストレーションも自動的におこなわれ、32音ポリ。8トラックという、いまなら控えめなスペックだが、近い性能を持った製品も発売されている。

 ほかにも、ネット上に仮想のスタジオがあり、世界中のミュージシャンがバーチャルに参加して曲を制作、聞く側は16ビットステレオ、44.1キロヘルツのデータをダウンロードし、クレジットカードで決済するというようなことが描いてあった。

 インターネットが世の中に普及する以前の予測としてはなかなかいい線だ。いま読むと、現在では実現しているもの、してないものが入り乱れている。おおむね実現していないものの方が多いので、まだ読める内容だが、ひとつだけ気になっているものがあった。

 それがコンピューターのディスプレイなんである。マンガの中の1997年では、まだまだブラウン管を使ったディスプレイが描かれている。

 1987年にも液晶ディスプレイはあったが、10年ぐらいの年月ではとてもカラーの大画面が普及するとは思っていなかったのだ。

 液晶は液体と個体の中間の性質を持った物質だ。身近なものでは石鹸水やイカの墨(液晶の材料としては使用されていない)がそれにあたる。この液晶の分子は、配向膜という一定方向に微細な溝がある板に接触させると、その溝にそってならぶ性質がある。

 2枚の配向膜を90度曲げた形で配置すると、その中の液晶もねじれてならび、そこを通った光もムンクの人のようにねじれるというわけなのだ。

 このねじれは、電圧をかけることによって解消される。この性質を利用して、ねじれた光を通さないようにした偏向フィルタを使えば、電圧のかかったところだけが光を通すようにすることができる。それが液晶デイスプレイの原理だ。

 カラーなら光の3原色、青、赤、緑のフィルターを使って、小さなドットごとに光を通す、通さないで色を表現しているわけだ。

 液晶にはSTNやDSTN、TFTなどの種類があるが、最近は、TFT液晶のほうがきれいなので人気がある。TFT液晶は、ドットひとつごとにトランジスタを使っているから、大きな液晶になればなるほど、トランジスタの数が多くなる。

 そんな理由で、とても大きなカラー液晶の製造には技術が必要だし、コストも高くつく。そんなものが、この10年ぐらいで普及するわけはないと予測していたわけだ。

 それから10年たった1997年度は、予測が当たるかはずれるかで、やきもきとしていたが、液晶ディスプレイが各家庭に普及してなかったのには、ほっとする反面、つまらなくもあった。

 けっきょく、予想ははずれたわけではないが、予想がはずれてもいいから、大型の液晶ディスプレイが安価になり、各家庭にまではいりこんでいてほしかったなーと思った次第だ。

 それが今年になると、いっせいに大型の液晶ディスプレイが、まだ少し高価なものの、買えない価格ではなくなってきた。ディスプレイメーカーは、今年を液晶普及元年としたいらしい。

 液晶であるイカ墨を使った料理は、昔は高級料理だったが、いまではレトルト食品になり、手軽に食べられるようになった。同じようにオレのようなビンボー人にも液晶ディスプレイの時代がやってきてほしいものである。 

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1998年7月13日 (月)

あれ?

 思いこんでしまうと、なかなかまちがいに気がつかないものだ。

 寝ぼけて、枕元にあるワイヤレスホンの子機だと思って、ずーっと目覚まし時計にモシモシと言い続けてしまったメカデザイナーがいるかと思えば、シェービングクリームと歯磨きをまちがえて髭をそってしまったミュージシャンもいる。

 かくいうオレも、ヘアムースとまちがえてシェービングフォームを頭にテンコ盛りにしたことがある。それも、しばらく擦りこんでから、やけに泡が消えないなと不審に思って、やっと気がついたという始末だ。でかける直前に頭を洗うハメになってしまい、約束の時間に20分32秒遅れることになってしまった。

 こうした物理的なまちがいから、言葉の用語のまちがいまで、じつに思いこみまちがいは幅広く深く静かに潜伏している。

 ホームページの文章で、家庭の状況をあらわすのにエンゲル係数を使ったものがあった。「わが家のエンゲル係数は低いので、物を買うにも家族会議を開き……」という文章だったが、エンゲル係数というのは、全支出に対する食費の割合で、これが高いほど貧しいとされている。

 したがって、読み始めは、なんだ金持ちが買い物をするのに家族会議を開くのかと思っていた。

「お父様、あたくしポルシェが欲しいの」
「いやいや、ベンツぐらいにしておきなさい」と続くのかと思っていると、ブラウス1枚が買えないという悲しくなるような展開になったのだ。

 こういう場合は、エンゲル係数が高いと書くものですぞ。ああ、涙ぐましい話だったが、明るく生きるんだぞと励ましてあげたくなるような内容だったな。

 似たようなまちがいに、コストパフォーマンスという言葉の使い方もある。よく、コストパフォーマンスが高いとか低いとかいうが、これは性能対価格比のことだ。

 ある製品の性能が、価格の高低にかかわらず、それに見合っているかをはかる用語なのである。したがって、たんに製品の安い高いをしめすものではない。

 100円でコストパフォーマンスの低いものもあれば、100万円でコストパフォーマンスの高いものもあるということだ。

 1000円の製品が、2000円のものと同じ働きをすれば、コストパフォーマンスは高いということだし、500円のものと同程度の働きしかしなければ、コストパフォーマンスは低いということになる。

 Webの場合は、出版物と違って誰かが文章の校正をしてくれるわけではないので、注意したいところだ。といっても、コンピューター系雑誌では、堂々とこうしたまちがいが載っていることがあり、頭をかかえてしまうこともある。とほほ。

 さて、最近では出版の状況も激しくなり、ハードカバーという硬い表紙がついている大きなサイズの本は、なかなかつくってもらえなくなっている。

 したがって、ある程度のキャリアのある作家の長編という形でしか刊行されることはないといってもいい。

 先日、ある作家のハードカバーを買った。てっきり長編だと思いこんで読んでいたため、1話ごとに主人公は変わるし舞台も変わる。しかしアジアという地域に特定されていたために、これらの断片の物語をパズルのように組み合わせて、最後にはあっというような長編の物語に統合されるのだと信じて読んでいた。

 どう決着がつくのか、作家の力量が問われるわけで、すごい話になると思って読んでいたのだが、最後の1編まで読んでも何も起こらない。あとがきを読んで初めて短編集だということに気がついたのだ。

 とたんに、ものすごい傑作の予感は頭のなかから消え失せてしまった。

 いやまあ、このように思いこみとは怖いもんである。 

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1998年8月10日 (月)

赤ちゃんが乗ってます

 クルマに不思議なステッカーが貼ってあるのをみた。それは、「赤ちゃんが乗ってます」というものだ。

 これはいったい、なにを意味するのだろうか? 考えれば考えるほどわからない。いったいどーいうものなのだと日夜考えつづけて蓄音機の犬のように固まってしまった。

 クルマに貼ってあるステッカー類で、有名なものといえば、初心者マークだろう。若葉を元にデザインされたものらしい。この初心者マークは、自動車の免許をとりたての者が、クルマに掲示することになっている。

 余談だが、このマークはどこで売っているのかわかりづらい。卒業するときに教習所で配ってくれればよさそうなのに、おれが通ったとこでは、そんなことはなかった。なにせ初心者だ、手にいれるのには苦労した。ガソリンスタンドで売っているというのには、なかなか気がつかないぞ。

 こうして初心者マークを所定の位置にとりつけて(まちがっている奴は多いぞ)走るわけだが、この初心者マークには「この人は初心者なので、まわりの人はやさしくしてあげてください」などという意味はないんである。

 最初にクルマに乗る身としては、そーしてもらいたい気分だが、マークの意味するところは反対なのだ。すなわち「わしは初心者じゃけん、なにしでかすかわからんけん。近づくと危険じゃもんねー」と、自分が凶悪者であることを宣言するためのマークなのだ。

 これを知らずしてか、初心者マークをつけたクルマをみつけると、こりゃ教育的指導をしてやらにゃあかんな、などと、にじりよってくるクルマがいる。

 ここは、もっと早く走るんやというように、後ろにピッタリとつけてあおったりする柔道審判的馬鹿頭者がいるのは困ったものだ。これらの馬鹿頭者が自ら呼び出した原因で事故にまきこまれても知ったことではない。初心者マークをつけて走っている奴は、自動車社会のなかでは凶悪人なのだ。だから近づくな。

 これと同じような意味を持つマークにシルバーマークもあるが、こちらはまだ義務づけられてはいない。こちらは、老人になって、運動能力が落ちてくると、運転という体力と技術を要する業務がむずかしくなる。こーなると自動車社会では凶悪人とされ、これまた、近づくと危険ということにしましょうということなのだが、いろいろと反対もあるらしい。

 では「赤ちゃんが乗ってます」にはどういう意味があるのだろう。かわいいから近寄ってきてみなさいということではないだろう。

 自動車社会では、マークの貼ってあるクルマは危険であるということらしい。初心者マーク、シルバーマーク。またはタンクローリー車に貼ってある「危」マークなどを考えてみてもわかる。

 クルマは言葉でコミュニケーションできないので、どのクルマが安全か危険かがみた目でわかりづらい。そこで危険なクルマには自ら危険と宣言してもらうわけだ。

 赤ちゃんが乗っていると、急に泣き出して、あやすのにわき見運転になるとか、おむつをとりかえるために片手運転、前方不注意になるとかあるだろう。突然もどしてシートがドロドロヌチャヌチャになりあわてて始末したり。または、急に具合が悪くなり、一刻も早く病院へつれていかなければならなくなることもあるだろう。

 高速道路の追い越し車線を、制限スピードをはるかに越えて走っていくクルマや、峠の下りをWRCよろしく4輪ドリフトで走っていくクルマ。高速の路肩を走っていくクルマに「赤ちゃんが乗ってます」マークが貼ってあれば、十中八九これに違いない。

 また、赤ちゃんが好きな人が運転しているクルマが、隣りへならんで走ったりすると、ついあやしてしまい、わき見運転で事故を起こすかもしれない。

 こーなると、事故の原因になりそうなことが、赤ちゃんという要素がくわわることで格段に増える。赤ちゃんはかわいいというイメージとは裏腹に、やはり危険だから注意せよということに違いない。

 あっ! だからベビーギャングというのか。 

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1998年8月31日 (月)

文句は寡黙に

 企業やメーカーのホームページをのぞけば、ホームページはきわめて個人的なものだと思う。
 雑誌やテレビでものをつくろうとすれば、大多数を意識してつくらなくてはならない。100人のうち、80~90人にアピールすることを考えるわけだ。
 その反面、個人によるホームページなら、そんなことは考えなくていい。たとえ話になるが、料理のことを書くにしろ、雑誌では大方の好みが反映される。
 こうして、みそ汁の具を紹介するにしても、豆腐やワカメ、あさり、ナス、小松菜など、定番的なものを紹介して、おいしいですよ、おつくりなさいとなるわけだ。
 これを、すいかのみそ汁が世界でいちばんうまいと信じている者にとっては、なぜ、こんなにうまいものを紹介しないのかという気持ちになるだろう。
 そこで、すいかのみそ汁がいちばんうまいというホームページを立ち上げるわけだ。いかにうまいか、どのようにつくるか、どれだけいいものなのか、渾身のちからをふりしぼって書くことになる。
 これに対して、すいかのみそ汁はうまくないと反論するのは野暮なことだろう。また、みそ汁というものは、ふつう、豆腐だのワカメだのがスタンダードなので、そうしたものをなぜ紹介しないのだと意見することも、まったくの無意味だ。
 別のたとえにしてみよう。自分の部屋のなかで、テレビや家具など、なにをどこに配置するかというホームページをつくっている者がいるとしよう。
 テレビはどこに置き、本棚はここだということが書いてある。それは、彼(彼女)の部屋にとって最善のかたちで配置されているのだろうし、彼らにとっては合理的な説明ができるものなのに違いない。
 そこへ、あなたは風水というものを知らないのか、中国四千年の歴史があり、気の通り道を考慮したじつに考えられたものなのだ。それから考えると、あなたの部屋の配置はまちがっていると、真顔になって文句をつけてもしかたがないのだ。
 それをメールで送りつけても、いったいなんになるというのだろう。
 すいかのみそ汁が最高だと思い、それを書くからこそ、広く普及している一般の料理の本やテレビとの情報とは違うものを提供しているわけだし、それがまた、面白くとらえられ、集客をしていると考えられるのである。
 個人のホームページは、個人の考え、信念、嗜好で成りたっているから面白いのだ。そこに、一般的なとか、大多数へのとかいう媚びが少ないところがいい。
 そのかわりといってはなんだが、独りよがりになっているものもあるし、まちがいが書かれているものもある。ただ、それを読まされて、なにが悪いというのだろう。
 われわれは、文字になって書かれているもの、他からやってくる情報を信じてしまう部分がある。一般のメディアでは、編集や制作過程において、自己チェックがはいり、あまり大きなウソが配布されることはない。かといって、まったくないわけではないので用心することにこしたことはないが。
 個人ホームページでは、情報は産地直送状態でやってくる。なにもかもが玉石混合でやってくる。だから面白いのだし、自分にとって有意義な情報と遭遇したときには喜びが大きい。だが、真偽、善悪の判断は自分でする。それについては騒がないのがルールだと思うのだ。
 そうしたところを理解してネットサーフィンしてもらいたいと、最近遭遇した、あることによって、考えちゃったりしてるのである。まぁタダのものだし。あ、それを言っちゃおしめぇか。

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1998年9月 7日 (月)

Dream Come True

 SFにどっぷりとはまったのは1974年のことだから、もう四半世紀になろうとしている。
 小学生のころから、少年少女空想科学小説集などが好きで読んでいたのだが、一過性のもので、その後推理小説などを読みあさる方向へシフトしていった。
 これをSF方面へ呼び戻すきっかけとなったのは、恥ずかしながら『宇宙戦艦ヤマト』だったことは否定できない。最初は興味がなかったのだが、九州への修学旅行中の旅館で、その手の物好きな連中といっしょに見て、すぐにかぶれてしまった。放映開始からはすでに1か月以上が経過していた。
 すかさず、最初からのストーリーをその連中に問いただした。しかし、奴らもただ者ではない。最初からのストーリーを自分たちの解釈をまじえて説明してくれたのだ。いわく、ワープとはなんなのか? 木星の浮遊大陸とはなんなのかである。それが、グラビトン(重力子)などといった、あやしげな科学用語とともに説明されたので、子供のころに読んでいた子供だましの小説とはひと味違うぞなどと、すぐさまSF小説を読みあさる日々へ突入していったのだ。
 それ以前にも、星新一さんのショートショートはちらちらと読んでいたので、そこをとっかかりにして、小松左京さん、筒井康隆さん、豊田有恒さん、平井和正さん、光瀬龍さん、半村良さんと、手あたりしだいに読んでいった。
 最初の1か月で、ほぼ100冊を読み、SFのなんたるかをおぼろげながら理解することができた。こうなれば、後はどんどん深みへはまっていくばかりだ。
 ちょうど高校3年という時期だったこともあり、学校の勉強よりもSFのほうがおもしろかったので、当然のごとく受験などはまともにできるはずはない。
 青春時代に、ついうっかり書いてしまい、後でギャっと顔を赤らめるものにラブレターと日記などがあるが、このSFにはまっていた坊ちゃん刈りメガネ男(おれだ)も日記なぞをしたためるという若気のいたりをしちゃっていたのである。
 全部思い出すと恥ずかしいからもちょっとだけ思いだすが、そのときにSF関係の仕事につきたいとか、日本SF作家クラブにはいって、SF作家の人たちといっしょに旅行に行きたいなどと、青いケツから毛をむしり抜きたいようなことをぬけぬけと書いていたのだ。
 説明をしておくと、日本SF作家クラブというのは、1963年に新宿は十二社の台湾料理屋で、SF作家、翻訳家、編集者といった面々で結成された仲良しクラブである。
 当時は、SFなどと言えば子供だましのものとされ、文壇、出版界、その他いろいろな場所で迫害を受けていた。だから、同じSFを志す者として、仲間となって迫害から耐えようということで結成されたという。今からは考えられないほどのきびしい時代だったのだ。
 のちにイラストレーターやマンガ家を加えたSF作家クラブのことが、SF作家の小説やエッセイにたびたび登場していた。最初のころは認知もしてもらえず、旅行へいけば旅館の入口に「日本SFサッカークラブ」と書かれていたとか、原子力発電所へ行って、まず原子を見せてほしい。所長の原子力(はらこつとむ)さんに会わせてほしいなどといったことを口にするといった、おそろしくもばかばかしいことをしている様が書かれていたのだ。
 こういう場所へ参加してみたいと、高校生のガニメデ星人風セルロイドメガネタニシ目容貌のおれは思っちゃったのである。すぐさま、あるSF雑誌の新人賞に応募したりするが、そんなものが入選するほど世の中は甘くない。
 そこで、SF関係者には広告界出身者が多いことに目をつけ、一時的に広告界へ行く決心をしたのだった。広告をやりつつ、SFファンダムにも身を投じ、新SF雑誌の創刊にあわせ、イラストレーターとして参加できるというだけで会社を辞めたバカ者となったのである。
 以来、SF雑誌にイラストを描いたりしていたが、のちに仕事は拡散し、いつの間にかSFとはほど遠いMac雑誌関連で仕事をする身となっていた。
 そんな折り、黒澤明監督の訃報で大騒ぎをしている9月6日に、とり・みき、星敬ご両名の推薦により、日本SF作家クラブへの入会が許諾されたという報をもらった。少年時代の夢が実現されたのを喜ぶ反面、SFとして認知される作品をつくってないことを、こーなれば、お前もしっかりしろよと叱咤激励されているのかと考えてしまった。
 そんなわけで、ちょっとお尻がこそばい感じを味わいつつ、褌を締めなおさなあかんなと思いを新たにしているのだった。 

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1998年9月14日 (月)

貧乏人は物を大切にするか?

 おもちゃに価値がつくなどと、どこの誰が考えていただろう?
 最近のテレビ番組、とくに「開運なんでも鑑定団」などによって、昔のおもちゃに高い値段がつくようになった。なかには、自分が持っていた記憶のある物が、ええーっという高い値段がつくことがある。
 今、持っていれば、一家4人で温泉へいくぐらいの金にすぐさま換金できるのになぁと思ってももう遅い。
 金になるということは、長い年月の保管賃と考えてもいいからだ。それには、置いておけるだけのスペースが必要なんである。
 東京で考えれば、年間の保管スペースの値段はバカにならないから、ええーっというような価格になってしまうのだ。試しに1年間、どこか倉庫を借りて保管することを考えてみるといい。あっという間に数万円になってしまうのだ。
 そんな保管場所のある家に住んでいるのは、お金持ちの子供だ。家に蔵があったり、保管場所があったりするから、そこへ余分なものを蓄えられていたのだ。
 それが、年月を経て金になるのだから、お金持ちにはかなわない。
 よく、貧乏人は物を大切にするというが、あれはウソである。貧乏であるがゆえに、物が壊れると2度と手に入らないことは身にしみてわかっているのだ。それに対して、思い入れを持ってはいけないのである。
 すべての物に対して、一期一会の態度でつきあわないとやっていけないのである。
 おもちゃの話に戻るが、今では数万円になるようなおもちゃがウチにもあった。学校へいく前になでて、学校から帰るとまっさきに愛でるというようなつきあいをしていたのだ。
 だが、ある日、学校から帰るとウチには、そのおもちゃの姿がなかった。親に問いただすと、捨てたという。
 泣きながら責めても、もう遅い。親にとってみれば、このガキはおもちゃに淫しているわけで、勉学のさまたげになるものでしかないのだ。
 こうして、学校へ行っている間に捨てられてしまうのである。まったくひどい話であるが、昔の家庭はこんなものだ。家にいないと、ありとあらゆる物が捨てられていくのである。
 なんの哲学があってしたものかはしらないが、子供の心の中に、反抗心が育ち、殺意さえもいだかせることはまちがいのないことだろう。
 それでも、なんの事件もおきずにいたことは、よき時代であったのか、このガキになんの実行力もなかったかのどちらかだ。
 だからというわけではないが、「なんでも鑑定団」のような番組を、親といっしょに見るような機会があれば、まっさきに金額のところに反応しちゃうのである。
 あ、あれが5万円。これは3万円、そーいや、うちにもあったよねーなどと、逆襲をしてしまう。捨ててなければ、ウン十万になったのになどとほざいてしまうのだ。
 20年経った今だからできる、無力なガキのささやかな仕返しなんである。 

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1998年9月28日 (月)

汝らは何者か?

 動物として考えれば、人類は、武器になるような身体的特徴が希薄である。そのかわりといってはなんだが、情報を複雑に処理する大脳を発達させてきた。
 この大脳のおかげで、危険を逃れ、またはより大きな獲物をとらえ生き延びてきた。大脳は人類にとって、生存のための武器だったのである。
 ところが、生きていくために必要な機能以上の力を大脳は持つことになった。言語をあやつり、文化をつくり、未来を考えるようになった。
 未来を予見し、予測し、考えることは、生存のために必要なテクニックであったのかもしれないが、いつしか、人類が他の動物に怯えることもなく生活できるようになっても、その未来を予測する行為は色濃く残ることになった。
 ある条件がわかれば、それを使ってシミュレートすることにより、短期の未来から、長期にわたる未来を予測する。こうした能力によって、人類は危険を回避し、今日まで生きながらえてきたのである。
 ところが、未来を予見し、考えることをやめてしまったかのような一群に出くわすことがある。
 それは、自転車に乗ったおばちゃんたち、通称オバチャリの一群だ。このオバチャリたちは、未来を予見し考えることを放棄しているとしか思えない行動をとる。
 たとえば、交差点に向かって直交する方向から2台のオバチャリが進んでいるとしよう。傍らでみていると、その速度や進行方向から、しばらく後には、2台のオバチャリはある一点で交差してしまうことは容易に予測できる。
 こうした場合、どちらかが速度を変更する、方向を変えるなどの措置をとれば、交差することはなくなるのだが、オバチャリはそのままズンズンと突き進んでいく。そして、接触する直前になってキキーとけたたましいブレーキの音を響かせて止まるのである。
 そして、無言のままか、薄笑いを浮かべるか、「あらー」などと言いながら、それぞれの進むべき方向へと去っていくのだ。
 また、つぎのような場面に出くわすことがある。クルマがすれ違うことができないような狭い道路で、トラックが角を曲がってこようとしている。トラックの前の道路には少しの隙間があるが、車輪の回転半径があるために、曲がってくるためには、その隙間に車体が移動してくることは、火を見るよりも明らかだ。
 ここへオバチャリがやってくると、手前で止まろうとはしない、なんの躊躇もなく、その隙間へ我が身をすべりこませるのだ。
 未来を予見すれば、トラックが止まらない場合もあるわけで、その場合には、塀とトラックの間にはさまれてしまう。そうでなくても、ぶつかるなどの身体的危険が待ちかまえている。そうした予測ができれば、とうていできない行為をいとも簡単にしてしまうのはいったいどういうわけなの だ。
 さらに、道路の端を走っているオバチャリは、なんの前触れもなく道路の反対側へ移動する。すぐにぶつかるほどの距離ではないが、前後にクルマが迫っているというのにである。これもクルマの速度と自分の速度から将来の位置を予測すればできない行為だ。
 オバチャリたちは、人類が生来獲得してきた未来を予測する能力を放棄しているかのようにみえる。そうでないとしたら、オバチャリたちの考える未来像はひとつしかない。
「すべては自分に都合のいい結果になる」という未来だ。
 そんなことはないと思うよ、オバちゃん。 

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1998年10月 5日 (月)

やればできる

 言った側はほめているつもりだったのかもしれないが、言われると嫌な気分になる言葉がある。それは「やればできる」という言葉だ。
 小さいころから、苦労して物事を成し遂げたときに、よく「やればできるじゃない」と言われた。
 言われた側としては、まったく誉められているとは思わなかった。苦労に対してなんの評価もないかのような表現にがっかりしたものだ。
 そこで努力したこと、知恵を使ったこと、その他もろもろのことに対して、いっさいの評価をしないと言われたようで、目の前が真っ暗になるような気分になった。
「やればできる」という言葉は、言われた当人を低く見ている以外のなにものでもない言葉であるのだ。
 当人にとっては「やればできる」のではなくて、「やったからできた」のである。
 この違いは大きい。「やればできる」ことは、やらなくてもできるのであり、やる前から結果が予測できるものなのだ。
「やればできる」と言う側にとってみれば、誉めるというよりは「やればできることなのに、なんでやんないざましょ、このばーたれが、まったくもー、とても見ていて腹が立つざますわ」という見下した物の見方をしていると考えられる。
 こうなると、失敗は許されないのだ。これはプレッシャーになる。
 自分にとっては結果が予測できることであり、周囲からはプレッシャーを与えられることを、なぜやらなくてはならないのか。これでは、何かをやろうという気持ちがそがれてしまうのも無理はない。
 できるか、できないかわからない目標を掲げたときに、初めてやってみようかという気持ちがわいてくるものなのである。
 失敗したとしても、できないことに挑戦して失敗したのだから、立脚点はゆるがない。また挑戦してみようという気持ちだけが残ることになる。
 ところが、「やればできる」と意味づけされていることを失敗したらどうなるのだ。自分ができるとされていることすらできなかったということになり、大きなトラウマとなって残ることになるのだ。
 これでは励ますどころか逆効果である。そこで、自分がなにもできない人間であると思いこみ、どんどん矮小化していってしまう。
 これに対し「やったからできた」というのは、困難を克服し、1歩前進したとか、経験値が上がったとか、次のステージへ進んだとか、そういった感覚を持ったときに実感できる。もー、わし、昔の自分じゃないもんね。こんなこともできちゃうもんね、うはうは。という高揚した気分なのだ。
 そんなときに「やればできる」などと言われると、気持ちはそがれるわ、上ってきたステージからは、たたき落とされるわ、なにもいいことはない。
 ここらへんがわからん人が、世の中にはいっぱいいるようなのだ。とくに、子供を持つ親御さんは、こうした表現が、子供の心をおとしめていることに注意したほうがいいと思う。
 世の中「やったからできた」ことしかないのだから、なにかを成し遂げたときには、「よくやった」だけで十分なんじゃないでしょうかね。
 まあ、「やったからできた」、できちゃった結婚には「よくやった」と言えるのかわからないが。

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1998年10月19日 (月)

鍛え上げた肉体

 この10月から、軽自動車のサイズが大きくなった。全長で10センチ、全幅で8センチ大きくなったそうだ。
 これは、軽自動車における、衝突時の安全確保ができる速度基準が上がったための措置とされている。
 いうなれば、軽だからといって、衝突したときにグシャグシャになって、生命に危険がおよぶような壊れ方をしてはいけんもんねというお達しに対し、もーちょっと規制サイズを大きくしてもらわんと、わしら基準をクリアできんもんねという食い下がりが業界よりあったわけだ。
 こうして、どのメーカーの軽自動車も、世界最高水準の衝突安全性能というキャッチを使うようになったわけだが、人の身体は衝突に対してどれだけ強くいられるのだろうか。
 中学生のときに友人から聞いたハナシだ。
 オレが20代前半まで住んでいたのは川崎市だ。そこで、ウチから川崎駅へ出るのにはバスを使っていた。バスが15分から早ければ10分そこそこで川崎駅まで行けるのに対し、いちばん近くの国鉄の駅まで、徒歩で15分かかっていたためだ。
 このバスは、途中までは片側1車線の道を走り、第2京浜国道へつきあたる。ここを右折し、商店街の狭い道へと左折する。そのまままっすぐ進むと、多摩川の堤防である土手の中腹につくられた道を進むことになる。
 その経路から、土手回りと呼ばれていた路線だ。
 この土手の道は、片側1車線、対面でクルマがすれ違うことができるだけの幅しかなかった。そして、片方は土手の斜面、もう片方は3メートルぐらいの高さの絶壁となっていた。つまり、その下3メートルぐらいのところに別の道があったのだ。
 その日、この道をバイクに乗った男が走っていた。いつものように、バスとすれ違いかけたところ、突然、バスの後ろから、追い越そうとして出てきたクルマがあったのだ。
 バスはバス停で止まっていたので、こういうことになったらしい。
 やばいと思ってハンドルを切り、ブレーキをかけた。バスの方へはハンドルを切れないので、ガードレール側だ。
 しかし、ガードレールをつきやぶってしまえば、下に転落する。ガードレールにバイクをこすりつつ、なんとか道のほうへ戻ろうとしたが、転倒してしまった。
 幸いなことに、バイクには巻き込まれず、バイクだけが先へ滑っていく格好になった。
 バスを追い越していったクルマは、そのまま走っていってしまったが、転倒していた男は、このクルマの死角になって、後続車からはみえなくなっていたのだ。
 そこへ、ダンプがやってきた。男の姿がみえた途端にブレーキを踏んだが間に合わなかった。
 ダンプの前輪が男の腹部にのしかかろうとしていた。ところが、この男、ふだんからボディビルなどで身体を鍛えていたのだ。
 前輪が腹部にせまった瞬間、渾身の力をこめ、ぐっと腹筋に力をいれた。ダンプのタイヤがグワンと男の腹部に乗り上げ、通り越していった。
 ダンプはブレーキをかけていたので、後輪がさらに男の腹部を轢きそうになる瞬間、ダンプは停止した。
 ダンプの運転手は、まっ青な顔をして降りてきた。車体の下の男をのぞき込む。「大丈夫か」などと声をかけたのだろう、男はゆるゆるとダンプの下から這い出してきた。
 そして、腹をさすりながら「あー、死ぬかと思った」と言ったそうである。
 ハナシが終わったあと、3秒の沈黙ののち、オレと友人は大声をあげて笑っていた。 

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1998年10月26日 (月)

世の中には……

 世の中のことを分けて語ると、なにか説得力があるように思えてくるから不思議だ。
 たとえば、「世の中には2種類の人間しかいない」と切り出せば、「なになに?」と聞き耳をたててもらえるだろう。
 この後につづく言葉は、なるべくわかりにくいものでないとありがたみがない。「世の中には2種類の人間しかいない、それは、わかる者とわからない者だ」とか、「イケてる人間とイケてない人間だ」などとつづけると、なるほどそうか、という気分になる。
 しかし、なにをもって、わかるのか、わからないのか、イケてるのか、イケてないのか、その基準がはっきりとしていないので、これらの言葉は、なにも語ってないのに等しい。
 では、「わかる度合いを55パーセント以上の人をわかる者、それ以下をわからない者にしましょう」と言ったところで、わかる度合いが定義できないのだから、これも無意味だ。
 それなら、「人の言ったことを理解して、そうした行動をとることができるかどうかを、わかる度合いとするざます」としても、そんなことには「わかる、わからない」という言葉は使われないのだ。
「あいつ、わからねえ奴だなぁ」とか、「あいつ、わかってるじゃん」と言うときには、理解とは別の部分を指している場合が多いからだ。
 とは言っても、あまりに自明なことを分けてもありがたがられない。
「この世には2種類の人間しかいない。それは男と女だ」
 これでは、「なんや、あたりまえやん」と相手にしてもらえない
 それでも、人は分けたがる。だが、その数はどうなのだろうか。
 ふたつに分けると、なにか深遠な答えを聞いたような気持ちになる。ところが、数が増えていくとどうだろう。3つの場合は、
「世の中には、3種類の人間がいる。それは、教える者と学ぶ者、そしてなにもしない者だ」
「世の中には、3種類の人間がいる。麻雀に勝つ人間と負ける人間、そして麻雀をしない人間だ」
 まだまだ、文章の書き出しとかには使えそうだ。それならば、
「世の中には、4種類の人間がいる。男と、男だと思っている女と、女だと思っている男と、女だ」ではどうだろか?
 まだイケてるような気がする(笑)。なんだか、性同一性障害を説明してしまったかのような気分になってきたぞ。
 こうなれば、「世の中には128種類の人間がいる。それは、お風呂に入るとき、右足から入る人間と、左足から入る人間と、指を浴槽に入れて湯加減をみる人間と、湯もみを10分間する人間と20分する人間と、タオルで前を隠す人間と……」
 いーかげんにしなさいと言われそうだ。これではまったくありがたくもない。
 なかなか分けることがむずかしいものを、すっきりと少ない種類に分けて語るからこそ、人々を惹きつけるインパクトがあるのだろう。この背景には、世の中のことは単純には分けられないという、あきらめに近い気持ちがあるのではないだろうか。
 もっとも、燃えるゴミと燃えないゴミはきっちりと分別してもらいたいものである。 

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1998年11月 2日 (月)

ぼくのおじさん

 どこの家族や親戚関係にも、1人ぐらいは、枠にはまらない人間がいることと思う。そんな人間がいない親戚関係は、つまらないのではないだろうか。
 うちの親戚関係でいえば、ヒロミチャンがそれにあたる。こうしてヒロミチャンなどと書いているが、れっきとした男である。だが、恥ずかしいことに、名字や名前をまったく知らない。
 父や母や、親戚のおばさんからも、ただ、ヒロミチャンと呼ばれていたので、子供としては、ヒロミチャンと理解するしかなかったのだ。
 ヒロミチャンは不良である。
 小学生のころからタバコを吸い、手のつけられないような悪だったらしい。らしいと書くのは、オレと会ったころは、そんな人にはみえなかったのだ。
 ひんぱんに顔を合わせたのは、オレが幼稚園以前の時代となる。東京の親戚の家へ遊びにいくと、ヒロミチャンはいた。いま、かんがえると、どうやら居候をしていたらしい。
 なにぶんにも、断片的な記憶しかないのだが、裸電球のぶら下がっている部屋だった。
 部屋には蓄音機があり、ヒロミチャンは2枚のレコードをかけてくれた。当時は、まったく洋楽など聞いたことがなかったので、それがなにかはわからなかったが、なにか心に残る音楽だったのは覚えている。
 それが、『ワシントン広場の夜はふけて』と『悲しきカンガルー』だったとわかるのは、こちらがだいぶ歳をとってからだ。
 聞かせた当人にとっては、なにげないことだったのかもしれないが、聞かされた方にとっては、異文化との遭遇である。それまでは、洋楽といったものは聞いたことがないのだ。いまと違って、昭和30年代のことだから、テレビで聞く音楽しか聞いたことがない。
 そこで歌われる洋楽は、日本語の歌詞で歌われていたため、それが外国の音楽だとは思いもしなかったのだ。
 何度か聞かされ、そらでメロディが歌えるようになるまで、繰り返し聞かされた。そうこうしていると、ヒロミチャンは、「ぶどうジュースを飲め」と赤い色をした液体をすすめてくれた。
 飲んでみると、甘い味がする。当時ガキだったオレは、本当にぶどうジュースだと信じていたのだが、これは赤玉ポートワインだったのだ。
 飲まされているオレは、まだ幼稚園。まったく、ふつーに考えると、とんでもないおじさんである(血のつながった、おじさんかどうかは不明であるが)。
 そのうち、部屋がぐるぐると回りだした。目が回るというと、回転に合わせて、部屋の中をぐるぐると回れという。
 そのとおりにして、酔いつぶれた。
 大声で笑うヒロミチャンの姿だけが記憶に残っている。
 この後、オープンタイプのスポーツカー(どうみてもアメ車だった)に、リーゼント頭で乗っている姿や、内縁だの、どうやら、何人かの女性を渡り歩いている話を困ったようにしている父母の話から、切れ切れになった情報しか知ることはなかった。
 つぎに、はっきりとした形で会ったのは、小学校5年生のときにあった祖父の葬式のときだ。大阪だったので、葬式のあと、親戚で泊まったのだが、夜寝ていると、ヒロミチャンのいたずらで、オレはいとこの女の子の布団へ移され、いっしょに寝ている状態となっていた。朝、起きるとものすごく恥ずかしかった。
「男と女はいっしょに寝るもんだ」とヒロミチャンは、にやにやとわらっていた。
 そうして、大人になり、ヒロミチャンの存在も忘れていた。そして今日、ヒロミチャンが亡くなっていたことを父母の話で知ったのだ。もう、5年も前のことになるという。まだ50歳ぐらいだったらしい。
 父母は、オレがヒロミチャンのことを知らないと考えていたようだ。葬式はごくごく少ない人間でおこなわれたという。やはり、一族の困り者だったからだろうか。
 何にも負ケズ。そういうおじさんに、なりたいものである。 

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1999年1月18日 (月)

仕事に行き詰まったら

 何年か前、取材である大学の教授に会ったときに、「どんな研究テーマでも、5年経つと手垢にまみれて陳腐なものになってしまう。だからひとつの研究は5年以内にしている」といったようなことを聞いた。
 これはわかるような気がする。この道一筋ウン十年とか、ずーっと同じことを続けている人を見ると、やはり継続は力なりと思うこともあるが、自分にかぎっていえば、長く続けているとダメになっていくのである。
 仕事を始めたのはデザインからだ。最初の2年ぐらいがいろいろなものを吸収し、勉強するといった時期だ。
 この吸収する時期にイラストレーターになるということで、デザイン会社を辞めてしまった。中途半端なのだが、この後しばらくはデザインがらみの仕事をしていた。イラストの仕事はあまりなかったが、それよりも年数が経つと、仕事自体が減っていった。
 この後、SFの仕事をするようになる。たまたま、SF作家の豊田有恒さんがSF創作集団、パラレル・クリエーションという会社をおこしたのと、仕事もなく、ぶらぶらしている時期、人間関係が重なったため、ここで働くようになったのだ。
 SFでの最初の仕事は、イラストレーションだった。文庫のカバー、小説の挿し絵など、つぎつぎと仕事を増やしていった。
 いつの間にか、世間はバブル景気で、地方での博覧会がブームになった。ここでの映像作品の企画などに、会社の社員として連れていかれるようになった。衛星放送などの新しいメディアができるたびに、SFにお声がかかった時代だ。
 そうこうしているうちに、バブルもはじけ、SFブームにも衰退のきざしが見えてきた。一度、大騒ぎしてしまったものほど、そっぽを向かれる度合いは強いのではないかと思えるぐらい、SFは冬の時代に入っていった。
 SFでメシを食っていたのは、10年ぐらいになるが、その前期と後期では仕事の内容が違っている。前期はイラスト。後期はマンガ原作、雑誌記事、対談まとめ、取材記事など、文章を書く割合が増えていた。
 そして、仕事のない時期がやってきた。1か月ぐらい仕事がないと喜んでいるのだが、これが半年も続くと、もういけない。不安に頭をかかえる毎日だ。
 この時期にMacと出会い、その面白さにどんどんハマっていった。気がつくとMac雑誌で仕事をするようになっていた。Macが日本に10万台もない時代だ。
 この後、Macがブームになり、Mac雑誌も次々に創刊された。Macについて書く舞台も増え、一般誌もふくめて、Macに関することを書き、または描き、仕事を続けてきた。
 それがおかしくなりはじめたのは、1997年ごろからだ。仕事をするとトラブる機会が増えてきた。だんだんとMac関係の仕事とは疎遠になっていった。
 1998年になると、仕事らしい仕事がなくなった。基本的には1か月1連載、金額にして10万円程度の収入しかないのである。
 仕事をとりにいこうにも、この不況だ。動かないことにした。時間はたっぷりとあるので、2日を1日のペースで生活することにした。これなら2日間で3食たべればいいので、食費のうかすことができる。もはやダンボールおじさんの心境だ。
 こうしてみると、デザイン期、SF期、Mac期と仕事のテーマはある年数ごとに変化している。その変わり目に必ずあるのが、仕事がない時期だ。
 となると、現在の仕事がない状況は、新しいテーマの仕事をする時期になったということを示している。でないと先の収入は見込めない。
 これからの数年間を託す乗物となる仕事をみつけるわけだが、どんな仕事をするようになるのか、その変化をちょっとワクワクしながら待っているんである。 

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1999年2月15日 (月)

木の芽どきには

 木の芽時というんでしょうか、春先になって、おてんと様もぬくうなってきますと、なにやら、言うことやすることがおかしゅうなってくる人が増えてきますな。
 たいていは、ぶつくさとようわからんことを言うてるみたいですが、ときどきは感心してしまうこともあります。
 先日、スーパーで買い物をしていますと、陳列棚に向かって、ぶつぶつ言うてる人がおりました。歳のころなら50代ぐらいでしょうか。身なりもそれなりにちゃんとしておりました。
 そのお方は、ハムやソーセージなどのパック詰め商品が陳列されている棚に向かって、ぶつぶつ言うておりましたが、ついには感情が激したんでしょうか、
「お前らが不倫してるのは、わかっとるんや!」と捨てゼリフを残して、去っていかはりました。
 なるほど。そう言われてみれば、あやしく見えてまいります。ハムのパックやベーコンのパック、ソーセージの袋、豚の角煮なんてのも、裏ではなにをしてるかわかりません。
 ハムとソーセージは、長年連れ添って暮らしてきましたが、昔はお互いに、派手な化粧もし、魅力あると思うてたのに、最近では、なんか色気もぬけてきたようで、つまらんようになってます。倦怠期いうんでしょうか。
 そこへ、新顔でやってきたのが、豚の角煮です。色は黒いけど、なんや脂ぎってて、なかなかに精力的な感じです。
 陳列棚で、ソーセージと角煮が触れあったときに、ソーセージにはビビビっと電気が走ったのかもしれません。ソーセージは角煮に恋い焦がれるようになってしまったんですな。
 ところが、ソーセージやハムは畜肉加工品だけど、角煮はお総菜やないやろかということで、売場が別になってしまったんですな。そこで、夜な夜な、人目を忍んで、ソーセージと角煮は逢い引きしとるということでっしゃろか。
 なに食わぬ顔で陳列台にいても、見えぬ部分での争いというのが、毎日絶えないのかもしれませんな。などと、スーパーの陳列棚の前で、蓄音機の犬のごとく人生を考えちゃったりするわけです。
 そんな、ぶつぶつ言う人にも、あきらかに電波系の人がおりますな。頭に電波で命令されているという人々です。
 このお方たちも、ちょっとなにするかわからんとこがあり、あまりお近づきにはなりとうないのですが、道で会ってしまう場合があります。
 先日も、夜、駅からの帰り道、どうも後ろを歩いている人が、電波の人のようでした。なにやら、ぶつぶつ言うたり、笑ったりします。
 うわー、と思って、早う違う方へ行かんかなと思ってましたが、どうやら、ずっと同じ道を歩いてくるのです。
 どうしたものかと、しばらく歩いてましたが、その姿だけは確認しといたほうがええのかもと、意を決して、曲がり角を利用して振り返ってみました。
 すると、携帯電話を耳にあてて、ぶつぶつと言うてることがわかりました。なんや、電話かいな。まったくもって、まぎらわしい。頭に電波がきている人かと思ったと、妙に納得して、安心したのでございます。
 そのまま、しばらく歩いていくと、いつの間にか、ぶつぶつ男はいなくなっていました。
 で、そのとき、ふっと思ったんですが、どうも、ぶつぶつ言うてた内容は、会話という感じがしなかったのに気がついたんです。
 携帯電話を耳に当てていれば、ぶつぶつ言うても、怪しく見られないのをいいことに、ぶつぶつ言うてるだけではなかったのかと思ったのでございます。
 携帯電話を耳に当ててる人のうち、何割かは、ただひとりごと言うてるとしたら、なんや薄気味悪うなってきまへんか?

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1999年2月22日 (月)

歩きつづけた先には

 かなり前の事故だが、いまだに記憶に強く焼き付いているものがある。
 横浜のボーススカウトのうち2名が、東京まで夜通し歩く訓練をしていて、早朝、新橋付近の横断歩道を渡っている時に、交差点を曲がってきたトラックに轢かれて死亡したというものだ。
 これは、結果論となるが、この2人は、死に向かって、一歩ずつ歩を進めていたことになる。わざわざ、横浜から、何十キロも歩いて、そこに待っていたのは死だったのだ。
 なんとも、やりきれない気分になる事故だが、人生を象徴しているともいえる。
 人生を旅にたとえることがよくあるが、時間的に距離を進んでいくものと解釈してもいいだろう。
 この場合、ゴールに待っているのは、輝かしい未来でも、至福の時でもない、死という現実である。いうなれば、人はみな、死に向かって、歩き続けている存在といえるのではないだろうか。こうしたことを、ふだんは忘れているが、非常に鮮やかに、それを思い出させてくれたのが、この事件だったのだ。
 それを思うと、夜、横浜を出発してから、死にいたるまで、2人がなにを話し、どんなことをしていたのかに興味がわいてくる。
 結果的には、最後の旅が、人生の縮図となってしまったわけである。なにか面白いことはあったのだろうか? なにか食べたのだろうか? それはおいしかったのだろうか? 東京へついたら、なにをしようかなどということを相談していたのだろうか?
 こうしたことは、すべての人の人生にあてはまるものだ。うまいものを食べようと、食べまいと、将来のことを考えていようと、いまいと、幸福な気分にひたっていようと、いまいと、最終的にたどりつくのは、同じ1点である。
 となると、人生は、生まれてから、死ぬまでの間の時間的経過をさすだけのものにしかすぎない。なにかをしようと、しまいと、時間は平等にすぎていく。
 いい人生、悪い人生とは、歩き方の差でしかないのだ。また、どう歩こうとほっといてくれという気分にもなる。
 しかし、歩き続けることに、意味を持たせようとした密教の修行がある。
 千日回峰行という修行が、高野山にある。千日のあいだ、毎日、山のなかを走り回り(1日にまわらなければならない距離は、歩いていては時間がなくなるほどの距離だ)、お経をあげ、段階によって、その行の激しさが強くなるというものだ。とくに最後になると、1週間だったか、その間、断食をし、不眠不休で経を唱え、山を回るという、ほとんど人間業とは思えないものになる。
 ここで失敗すれば、それ以前の何百日もの修行は、全部無になってしまうという、もっとも険しい行だ。
 よくおぼえていないが、最後の、断食をし、不眠不休で経をあげる時期になると、ふらふらになっているのに、ちゃんと行を続けていくのは精神力だけという場面になる。
 修行者が、自分のためにやっていることなのだが、それを見ていると、見ている側に変化がおきてくるのだ。なにか、ありがたいものに出会った気持ちになり、自然に手をあわせるようになる。
 見守る信者は、すでにみな泣いている。
 歩く姿、生きる姿を見せることで、他人が救われることもあるといういい見本だ。人を救おうなどと考えずに、解脱にいたろうなどとも考えずに、自分のやることをずっと続けなさいといった釈迦の言葉にも納得してしまう瞬間だ。
 ここで、ふと思うのだが、これだけの修行を設定した空海の胸のうちには、失敗することを望んでいたのではないかと思えるふしがある。人は歩き続け、野垂れ死ぬことが自然なのだという答えが隠されていたように思えてならない。
 千日回峰行に失敗すること。そして、山のなかで死体となり、誰にも知られず朽ち果てていくこと。これこそが空海が示したかった世界ではないのだろうか? 
 そこに、死ぬまではどんな場面にも到達点はなく、生き続けることしかないことの意義を感じるのだ。 

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1999年3月 1日 (月)

桜吹雪と別人28号

 日本人て、正体を隠してはいるが、本当はすごい人というのが好きだ。
 縮緬問屋のご隠居で、諸国を漫遊しておるじーさんとか、お白州で桜吹雪の入れ墨を見せちゃったりするおっちゃんとかがいるが、この桜吹雪のおっちゃんこと、遠山の金さんだけは好きになれない。
 ふだんは市井に身を投じ、遊び人として振る舞っているわけで、このときには、悪い連中ともつきあっているではないか。
 でもって、このときにつきあった連中とお白州で会ったときに、「やいやい、この桜吹雪が目にはいらねぇか」とやるわけだから、人間として考えた場合には、なんとも言語道断な奴である。
 人とのつきあいには、ある条件や、場所があってはじめて成り立つつきあいがある。その昔、ハイミナールなどの睡眠薬遊びが流行っていたころには、ラリっているときの友達は、ラリっているときにしかわからないという状況があった。
 ラリるというのは、クスリをきこしめしている状態で、たいていは前後不覚になっている。失禁したり、吐いてたりとなんともひどい状況だったとのことであるが、このときにも、人間関係はあるわけで、その状態のときに会っている人と、しらふのときに会うとわからないということだ。
 このラリリ時の友達は、ラリリ時にしかわからないというのは、日常の生活のときに会っても、おたがい知らないふりをしようという不文律ではないかと思うのだ。
 日常とは離れた、非日常の世界にいるわけだから、そのときの関係を日常にまで持ち込まれては都合が悪いということなのだろう。
 ここで、遠山の金さんだ。きゃつにとっては、奉行、または、そうした身分の世界が日常であるわけで、その世界で会う人とは、素性がばれているわけだから、遊び人であろうと、なにをしててもかまわない。
 ところが、身分を隠して市井にまぎれ、別人となっているときに、そこで見聞きしたことや経験を裁きに使うとは何事なのだ。
 ふだん、いっしょに飲み歩いたり、遊んでいた人間がいるとしよう。酔っぱらって道ばたで立ちションしたり、人ん家のガラス割って逃げたりして、こいつとは飲み友達やなどと思っていると、ある日突然、「わし、おまーらとは違って、偉い人じゃけんね。悪いことしたんも、なんもかも、よく覚えとるでー、さっさと神妙にしやがれ!」などといわれると、なんともやりきれない気持ちになる。
 他人とのつきあいの、根本部分を壊してしまっていると思えてならないのだ。
 悪いことをして裁きを受けるのは当然のことだが、そのときに、いっしょに行動した自分の経験を証拠にしてしまうのはいかがなことか? 
 おとり捜査というのも、こうした手法を使うわけで、この場合は、仕事としておとり捜査をさせられている捜査官の精神状態さえあぶなくなるのではないかと思う。
 金さんのようなことができるのは、立派な精神分裂症だと思うのだ。だから、遊び人時の金さんと、奉行時の金さんは、別人28号であるといってもかまわないのではないか。
 だから、お白州で、悪人のほうが、金さんを知らないねというのにも、一分の理屈はあると思うのだ。多重人格者とつきあっているわけだから、ここにいる奴は知らないといっても、なんの不思議もない。
 ところが、ここで桜吹雪の入れ墨がぁ~なのだ。こうなると、別の人格をむすびつけているのは、入れ墨だけということになる。
 昔から、入れ墨者は悪い奴と相場が決まっているぞ。遠山金四郎殿。 

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