1998年5月 4日 (月)

あんた誰?

   とある出版社が仕事の依頼の電話をしてきた。仮にN社としておこう。

「連載の企画をお願いしようと思いまして……」というきりだしだった。Mac雑誌が苦境にたたされているなかで、なかなか見る目があるじゃんと思ってしまったね。

 初心者向けのフォトレタッチ講座をやってほしいとのことだった。それなら、いままでやってきたイラスト講座とそれほどはずれるものでもない。こちらのノウハウが役にたつのならやってみたい企画だった。

「初心者向けの講座って、手間がかかるからという理由で、なかなか引き受けてもらえないんですよね」とのハナシだ。

 なるほど、そうだろう。自分の仕事としてやれば1日ですむ工程の説明をはじめると、ゆうに3日はかかるのだ。おなじ手間なら、短くすむほうがありがたい。

 その手間のかかることを、ずっとやってきているのだと説明をしているうちに、ふと疑問が頭をよぎった。

 依頼をしてきている雑誌は、Windows系の雑誌だったのだ。やはりグラフィックはMacにかぎるというので、Macのページでも始めるつもりなのだろうか?

 そこでおもむろに「ウチはMacですが」ときりだすと、絶句されてしまった。しばらくの沈黙ののち、
「じゃーまー、そーゆーことで」と電話を切りそうになるではないか、おいおい、すでにギャラのことなんかにも軽くふれていて、かなりハナシは進んでいたのだぞ。

 ここで切られては、いままでの時間、相手をしていたのはなんだったのだということになるので、SoftWindowsで作業をする提案をした。

「いまなら、MacやWindowsでクロスプラットホームのソフトも多いから、手順の説明は同じですよ。手順はMacでわかってるし、画面キャプチャだけWindowsの画面で撮ればいけるんと違いますか」などとほざいてみたが、どうも気に入らないようだ。

 そもそも、なんでウチへ電話してきたのだ。あちこちでやっているイラスト講座とかを見て電話してきたのではないのか? あげくのはてに「ふだんは、どんな仕事をしてるんですか?」ときたもんだ。

 おーい、まがりなりにも仕事を頼もうとした相手にいう言葉じゃないぞ。それでも某文壇の大御所なら「無礼者」とわめきちらすところを、ぐっとガマンしちゃって仕事の説明をしてしまうとこなんざ、まだまだケツが青いかな。

 イラストを描いたり、文章を書いたり、本の編集をしたりしていると説明し、「DOPINGMAC」という本の編集もしたことを伝えると「それ買いました」とキャアキャアよろこんでいる。そんな本を作っている人間がWindowsで仕事していると思っていたのだろうか?

 けっきょく、何人かの人間に打診しているところだという最初にはないハナシに変化し、来週中には結論を出しますというという逃げの体勢になってきたので、電話かメールでちゃんと連絡するようにと、メールアドレス、ホストペットつきをおしえて電話を切った。

 期限はすぎたが、それからなんの音沙汰もない。がんばしゃーじくるばい!

| | トラックバック (0)

1998年11月 9日 (月)

22年経った弥勒戦争

 23歳を目前にして、オレたちはあせっていた。それだけ焦燥にかられた思いになったのは、山田正紀さんの『神狩り』(1976年初版、現在はハルキ文庫に収録)のせいである。
 山田さんは、23歳で『神狩り』を書いた。ならば、23歳で、『神狩り』を書いたに匹敵するようなことをしなければいけない。と、SFファンダムのはしくれにいた、オレをふくめた何人かの若者はあせっていたのだ。
 20歳ぐらいなら、まだ3年あると考えていられるが、22歳にもなっていると、残り時間は少ない。なにか傑作の大長編SFをなどと考えても、とても書けるものではない。
 こうして23歳を目前にして、SFファンダムから消えていった者もいる。オレは23歳直前でデザイン会社をやめた。これがほんとの22歳の別れ、なんちて。
 こんな駄洒落を書こうとしていたのではない。久しく読めなかった『神狩り』が、復刊されたかと思うと、つぎには、山田さんの『弥勒戦争』(ハルキ文庫)と、たてつづけに刊行された。これらは、山田正紀の神シリーズ三部作として、20代前半にむさぼるように読んだ本だ。
『神狩り』では、神と人間との戦いをテーマとし、神=救ってくれるものという概念を大きく突き崩すことになった。
 そして『弥勒戦争』では、弥勒がテーマだ。弥勒は未来仏ともいわれ、56億7千万年ののちに、この世にあらわれ、一切衆生を救うとされている。
 現在の、宇宙の認識でいえば、それだけの年数が経っていれば、太陽が赤色巨星化していて、地球の軌道などは、すっぽりと飲み込まれてしまっていることになる。なぜ、そんな遠い未来に救いを託すのだろうか?
 大乗仏教での考え方に、大いなる乗物=マハ・ヤーナがある。人々を苦悩や迷いの世界から、彼岸へ渡してくれる乗物という意味だ。これに対し、劣悪な乗物=ヒーナ・ヤーナというのもある。こちらは、小乗仏教ということになる。
 大乗仏教では、「さとり」に達したものは、他にも教えを説き、人々をふくめ一切を救う。ゆえに菩薩と称される。
 一方、小乗仏教の代表とされるのは、声聞(しょうもん)と独覚(どくがく)である。声聞は、もっぱら仏の教えを聞き、そのまま従うものを指し、独覚は、ひとりで仏教の修行に励んだ末に、独自に「さとり」を得ることができたけども、他に説くこともせず、なにも救わないものを指す。
 さて、『弥勒戦争』の主人公は、裏小乗の独覚である。これだけで、もう面白そうではないか。
 小説は昭和25年からはじまる。これは山田さんの生まれた年であり、その年代を舞台にしてしまうことに、力量を感じる。
 自分の生まれた年である、昭和32年を舞台になにか書けといわれたら、ひるんでしまって、なにも書けないに違いないのだ。
 昭和25年には、うちの兄が生まれている。戦後わずか5年しか経ってないわけだし、国内ではレッド・パージがあり、お隣の朝鮮半島では、戦争がはじまった。
 この特需景気で、日本の経済は上向いていったわけだけど、またいつ、戦争にまきこまれるかもわからないという、暗い世相だったのだ。そして明かされる弥勒の正体とは。
 その時代に、時空を越えた戦いがあったという物語は、とても刺激的だった。これだけの小説が、この何年間は読めなかったということ自体のほうが、驚きに値するのかもしれない。
 昨今、映画やテレビではリメイクが多い。出版のほうでも、現在では入手が困難な、過去の傑作を探し出しては出版するということがすすんでいる。
 こうした、現在の読者にとって、未読の作品が復刊される裏には、出版界での熾烈な作品の奪い合いがある。いい作品は、はやく押さえてしまわないといけないのだ。そのために、編集者は未読を求めて、戦場にいるように奪い合っている。
 こうした『未読戦争』なら歓迎したいものである。えー、おあとがよろしいようで。 

| | トラックバック (0)

1999年1月25日 (月)

掛け売り御免

 亡くなった淀川長治さんは、仕事のギャラを現金でもらえないと仕事しなかったそうである。
 あの「さよなら、さよなら、さらなら」の後には、袋に入ったギャラをもらい、住まいであるホテルの部屋に戻ると、ベッドのうえに紙幣を1枚ずつならべて、数を勘定したという。
 なんだか、うらやましい話であるが、考えてみれば、そちらのほうが普通なのではないかと思ってしまう。
 自由業の仕事では、その場で、原稿などと引き替えにお金をもらえることはない。たいていは、原稿を渡し、出版され、その出版物の支払いの締め日に金額が計上され、支払期間を経て、銀行振込されてくる。
 この期間は、早くて3か月。長いところだと半年以上になる。自分のした仕事のギャラが、いつ支払われるのか、まったくわからない。
 考えてみれば、おかしな話である。わしらが店へ行って、物を買えば、その場で金を払わなければ、物は渡してもらえない。
 理髪などのサービスでも、支払いのときに「金がない。来月払う」などと言おうものなら、警察を呼ばれるのがいいところだ。
 例外的に、大口の取引をするとか、銀座のクラブとかでは、後で支払う、掛け売りができる場合があるが、こうした場合には、身分の保証や、保証人などが必要だ。
 原稿料の支払いは、物を売る側でいえば、掛け売り、ツケで売るといっしょのことなのだ。
 出版社は身元もしっかりしているということもなくなった。日本を代表するような大手出版社ならいざしらず、コンピュータ関係では、たいていは、あまり名前を聞いたこともない出版社からの依頼が多い。
 そして、初めて仕事をしても、支払い方法は変わらないのである。これは、初めての店を買い物にいき、一見客であるのに、ツケにしてくれというのと同じだ。
 この不況で、こうしたシステムがあぶなくなってきた。支払いまでの数ヶ月間で、出版社が支払不能になったり、倒産してしまうことがあるのだ。
 ジャパン・ミックス社の場合もそうだった。Infini-Dの解説本を共同執筆し、出版した。支払いは、3か月後とされた。それは、原稿入稿時からは、5か月経っているわけだ。
 そして3か月後、金がないので支払えないという。その後、毎月催促を続けるが、支払いはなかった。
 1998年8月には、社長と話すことができ、毎月10万円ずつ、分割で支払うとしたが、それも毎月払われることはなかった。
 倒産する前の週、未払い分には足りず、毎月の金額よりは多い金額が振り込まれ、首を傾げていると、ジャパン・ミックス社は倒産してしまった。
 あぶない世の中になったものだ。
 おまけに、出版では、仕事と報酬の関係があやふやだ。編集者が依頼にきても、ギャラの話になることはない。昔は、出版社ごとに相場があり、慣習によって、ある金額が支払われていたが、最近では、その金額もあやしくなってきた。たいていは安くなるのだ。
 そこで、原稿料について、最初にたずねるのだが、依頼にきた編集者は、金額をしらない場合が多い。これは、営業の人間が買い付けに行き、いくらで買えるかわからんけど、物を売ってくれというのと同じだ。
 こうした状況だから、した仕事に対しての報酬がきちんと支払われることもあやふやだ。編集者が伝票につけ忘れて、支払われなかったり、不当に安い金額である場合があったり、他人のところへ振り込まれてしまったりと、散々な状況だ。
 原稿やイラストも、現金取引にしたい今日このごろである。淀川さんぐらい有名にならんとダメかなぁ。 

| | トラックバック (0)