テレビの時間
銀座のバーで、「もうテレビは終わりだ」とテレビ関係者がおだをあげているのを聞いたのは、もう10年以上も昔のことになる。
そのときは、テレビ番組のナレーションについて、矛先が向けられていた。
「母艦とは、母なる船である」というナレーションが、そのままではないかということだった。こんなものが、映像とともに堂々と読み上げられているようでは、テレビに未来はないという話がされていた。
人が集まる店へ行くと、つい他のテーブルの話が気になって仕方がない。くわしい背景はわからないのだが、実際にテレビで仕事をしているディレクター、構成作家といった面々の会話のようだった。
そうか、テレビも終わるかと、最後の日を楽しみに待っていたが、まだ終わりそうもない。しかし、内容や、番組のなかのナレーションは時を経て、ますますひどいものになっている。
いちばんひどいのは、意味もわからずに言葉を使っていることだろう。
ある旅行番組で、その土地の食べ物をさがして食べるという企画があった。とれたての魚とか、そういったたぐいのものだが、ナレーションでは、グルメをさがすという言葉を使っていた。
グルメとは、食通や美食家をさす言葉だから、人につけられた名称だ。グルメをさがすなら、美食家をさがすということだから、意味は通じる。が、食べ物をさがすことではない。
そのうえ、グルメを食すとはなんだ。人を食うのか? ついでに、食べ物を指し、これが、この土地のグルメですなどとほざくようになっては、放送作家の知能指数を疑いたくなる。
出演しているタレントは、まあ、義務教育もちゃんとつとめあげていないようなバカ者だから、なにをほざいても憐れむしかないのだが、それらの映像素材をまとめて番組とするとなると、きちんとした内容のチェックがないといかんと思うのだ。
ついでにいえば、取材時にもディレクターやなんかが同行しているはずなので、言葉のまちがいぐらいは直しておくのは、プロとして当然の配慮だ。
しかし、民放の番組はもうむちゃくちゃである。旅行ものなんかは、その場で撮った絵を直しようがないので、タレントのアホ発言がそのまま垂れ流しだ。
道頓堀に消えたカーネル・サンダース人形のことを、カーネルおじさんと呼んでいるタレントがいた。カーネルとは陸軍大佐をあらわす言葉だから、サンダース大佐ということなのだが、カーネルおじさんになっちゃうとは。サンダースおじさんなら、まだわかるのだが。大佐おじさんとはねぇ。
また「ここ、オランダでは800年前からじゃがいもの料理がつくられていたんですねぇ」と才女をきどったタレントが言ったのには、ひっくり返りそうになった。
じゃがいもは新大陸原産だから、15世紀以前にはヨーロッパにはないのだ。ついでにいえば、トマトや唐辛子もそうだから、15世紀以前のイタリアのパスタにはトマトソースなんかはないのだ。
脱線ついでに書いておくと、17世紀以前のヨーロッパの食卓には、ナイフ、フォーク、スプーンが個人に配られることはなかった。中世では、肉を切り分ける小刀とおたまのように使う大きなスプーンで、めいめいの皿にとりわけたのだ。フォークの登場は16世紀以降で一般に普及したのは17世紀以降のことである。
それまで、食事は手で食べていたのだ。したがって、パスタのソースが、おつゆのある麺から、ドロドロとしたソースになっていったのには、それなりの理由があったのだ。手づかみでは、うどんのようなつゆものは食べにくいからだ。
テレビ放送開始時には、1億総白痴化などと言われてから、すでに40年近くが経過した。事態は確実に進展しているようだ。
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