1998年11月30日 (月)

テレビの時間

 銀座のバーで、「もうテレビは終わりだ」とテレビ関係者がおだをあげているのを聞いたのは、もう10年以上も昔のことになる。
 そのときは、テレビ番組のナレーションについて、矛先が向けられていた。
「母艦とは、母なる船である」というナレーションが、そのままではないかということだった。こんなものが、映像とともに堂々と読み上げられているようでは、テレビに未来はないという話がされていた。
 人が集まる店へ行くと、つい他のテーブルの話が気になって仕方がない。くわしい背景はわからないのだが、実際にテレビで仕事をしているディレクター、構成作家といった面々の会話のようだった。
 そうか、テレビも終わるかと、最後の日を楽しみに待っていたが、まだ終わりそうもない。しかし、内容や、番組のなかのナレーションは時を経て、ますますひどいものになっている。
 いちばんひどいのは、意味もわからずに言葉を使っていることだろう。
 ある旅行番組で、その土地の食べ物をさがして食べるという企画があった。とれたての魚とか、そういったたぐいのものだが、ナレーションでは、グルメをさがすという言葉を使っていた。
 グルメとは、食通や美食家をさす言葉だから、人につけられた名称だ。グルメをさがすなら、美食家をさがすということだから、意味は通じる。が、食べ物をさがすことではない。
 そのうえ、グルメを食すとはなんだ。人を食うのか? ついでに、食べ物を指し、これが、この土地のグルメですなどとほざくようになっては、放送作家の知能指数を疑いたくなる。
 出演しているタレントは、まあ、義務教育もちゃんとつとめあげていないようなバカ者だから、なにをほざいても憐れむしかないのだが、それらの映像素材をまとめて番組とするとなると、きちんとした内容のチェックがないといかんと思うのだ。
 ついでにいえば、取材時にもディレクターやなんかが同行しているはずなので、言葉のまちがいぐらいは直しておくのは、プロとして当然の配慮だ。
 しかし、民放の番組はもうむちゃくちゃである。旅行ものなんかは、その場で撮った絵を直しようがないので、タレントのアホ発言がそのまま垂れ流しだ。
 道頓堀に消えたカーネル・サンダース人形のことを、カーネルおじさんと呼んでいるタレントがいた。カーネルとは陸軍大佐をあらわす言葉だから、サンダース大佐ということなのだが、カーネルおじさんになっちゃうとは。サンダースおじさんなら、まだわかるのだが。大佐おじさんとはねぇ。
 また「ここ、オランダでは800年前からじゃがいもの料理がつくられていたんですねぇ」と才女をきどったタレントが言ったのには、ひっくり返りそうになった。
 じゃがいもは新大陸原産だから、15世紀以前にはヨーロッパにはないのだ。ついでにいえば、トマトや唐辛子もそうだから、15世紀以前のイタリアのパスタにはトマトソースなんかはないのだ。
 脱線ついでに書いておくと、17世紀以前のヨーロッパの食卓には、ナイフ、フォーク、スプーンが個人に配られることはなかった。中世では、肉を切り分ける小刀とおたまのように使う大きなスプーンで、めいめいの皿にとりわけたのだ。フォークの登場は16世紀以降で一般に普及したのは17世紀以降のことである。
 それまで、食事は手で食べていたのだ。したがって、パスタのソースが、おつゆのある麺から、ドロドロとしたソースになっていったのには、それなりの理由があったのだ。手づかみでは、うどんのようなつゆものは食べにくいからだ。
 テレビ放送開始時には、1億総白痴化などと言われてから、すでに40年近くが経過した。事態は確実に進展しているようだ。 

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1999年1月11日 (月)

ラーメンと環境

 今年で教育テレビも40歳だそーである。最近ではETVなどと格好つけた名称になっているが、ひとくせあるテレビチャンネルであることには違いない。
 あまり見ているという人にはお目にかからないが、なかなかどうして面白いチャンネルなのだ。とくに、午前中の学校向け教育番組などのなかには、はずれぐあいが大当たりのものもあって、大笑いしながら見てしまうことがある。
 もっとも、そんな時間にテレビを見ているのは、前日から起きている場合が多いので、徹夜明けのハイ状態頭で見ているから面白いのかもしれない。
 それにしても、制作側の趣味でしか作ってないような脱力番組を見つけるのは面白い。絶対に学校のことも教育のことも考えてない、ただの趣味でしかないと思うものもあるぞ。以前、教育テレビのディレクターなどの関係者にもあったことがあるが、皆、ある種の「おたく」的体臭をぷんぷんとさせていた。ここらへんが、ヘンなこだわり番組をつくる原動力なのだろう。
 そんな教育テレビで、日本の小学校をテレビ電話で結び、いろいろな問題を討論させる番組があった。その回は、沖縄の小学校と本土の小学校(忘れたが静岡あたりだったか)での討論だった。議題は、沖縄の美しい海をどうやって守るかというような内容だったと記憶している。
 そのなかで、本土の子が、「ラーメンのスープは残さず飲みましょう」という提案をした。これは、ラーメンのスープを下水に流すと、それをきれいな水に戻すには、たいへんな資源と手間が必要だということからの発言だった。
 それを聞いた沖縄の子は「身体に悪いからいやだ」と答えていた。そりゃそうだろうな。自然界で分解するにも大変なものを、人間の身体のなかで分解しろというわけで、肝臓やら腎臓にはむちゃくちゃ負担のかかりそうなことだ。
 それでも、ラーメンのスープは全部飲み干せと、どこかの大学の先生も言ってたっけなぁ。人間の身体の分解能力のほうが、浄水場よりも高いからだそうだが、健康には悪そうでいやだなぁ。
 近年のラーメンブームで、流行っているのは、油ギトギト、味濃いめ、麺固めという系列のラーメンだ。これらの油、塩分を分解するにはかなりの負担を身体に強いる。高血圧や肥満などの成人病(最近、呼び名が変わったよね)、肝臓病や腎臓病の元となりそうだ。体外で処理するとなると、浄水場では、浄化のためにより多くの資源や技術を使うことになるということだ。
 身体を悪くしても環境を守るのかという設問は、ちょっと面白い。環境とはなんぞやと問いかけてみたくもなる。
 そこに棲む動物や人間が安心して暮らせる自然を、環境とするならば、その環境を維持するために、人間は自身の身体を壊していくこともあることになる。
 こんな設問はどうだろう。ある人々を救うためには、ある場所の環境破壊になるようなことをしなければならなくなったとする。その人々を救うために、大規模な森林伐採、川を堰き止める、海を埋め立てるなどのことをしなければいけないとき、どういう判断をするのだろうか。
 人々を救うなら環境破壊。環境を救うなら、その人々には死んでもらうしかない。人の命と環境、どっちが重いんでしょうか?

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1999年5月17日 (月)

宇宙項のまちがい

 5月5日にTBS系で放映された『ヒトの旅、ヒトへの旅--世紀末・人類最先端スペシャル--』という番組を見た。
 筑紫哲也、立花隆、広末涼子といった面々がキャスターとなって進行するという構成の番組だ。キャスターたちに魅力はないが、ホンダのロボット開発の映像もあり、見るべき映像はいろいろあった。
 そのなかで、アインシュタインの一般相対性理論に関するコーナーがあった。20世紀の偉大な発見というふれこみだ。ふつう、E=Mc2という特殊相対性理論からの数式の方が有名だがなー、と思ったが、アインシュタインがこの一般相対性理論の数式を作ったときに、一生の不覚であるまちがいをしたという、おなじみのエピソードの紹介のためとわかった。
 一般相対性理論は、特殊相対性理論の考えを発展させたものだ。特殊相対性理論は「すべての慣性系は相対的である」ということと「すべての慣性系において、真空中の光速度は不変である」というふたつの前提で成り立っていたが、宇宙においては静止した慣性系などないということに気づき、一般相対性理論に取り組んだのだ。
 このときの前提は、「すべての観測者の立場は相対的である」と「物体の持つ慣性質量と重力質量の値は等しい」ということだった。後者を「等価原理」といい、一般相対性理論で重要とされる。ここから導きだされるのは、重力と加速度は同じであるということだ。
 これからアインシュタインは、場の方程式という数式を作り出した。そして宇宙にあてはめてみようとすると、宇宙は膨張か収縮するということになった。
 ここでアインシュタインは、場の方程式に宇宙の重さを推定して(1平方メートルあたり陽子10個)いれてみた。すると、宇宙は自身の重みに耐えかねてつぶれてしまうという結果となった。
 このときにアインシュタインは、宇宙は不変であり静止していると考えていたので、場の方程式を変えなければならなくなった。それが宇宙項(ラムダ項)といわれる部分だ。よって、宇宙項は斥力(お互いを遠ざける力)を表した数式といえる。
 その後、ハッブルによって宇宙は膨張していることが発見され、宇宙項はなくてもいいことになった。宇宙項は大きなあやまちだとして、アインシュタインは生涯悔やんででいたという。
 ところが、その番組では、宇宙項を「膨張を止める力」として紹介していた。それなら、引力があるから十分なわけで、わざわざ宇宙項をつけくわえる必要もないことになってしまう。
 昨年ぐらいから、宇宙の観測により、この斥力がある証拠が発見されたとか、いやないということが大きな話題になっている。それを受けてのコーナーだと思ったのだが、これでは根底から腰砕けだ。
 このコーナーは立花隆が、アインシュタインにインタビューをおこなうという架空の映像によって構成されていた。
 この立花隆という人は、いろんなところへ首をつっこんでは、すぐさま本にするという人なのだが、対象についてはあまり深く理解はしていないらしい。宇宙項が膨張を止める力と台本に書いてあったなら、それはおかしいと考えないといけないだろう。
 この番組、監修には佐藤勝彦というインフレーション宇宙論を提唱した東大教授がついているのだが、宇宙項のまちがいに気がつくこともなかったのだろうか? また、番組の説明が正しいとする新たな確証を持っていたのだろうか? それがあるなら説明してもらいたかったと思う。
 一般社会で権威のある人、知性があると思われている人を番組に配置するということは、番組に権威をつけることだったり、格調を高く見せるために使われる手法だが、これではまったく逆効果だ。その番組のために、権威は落ち、知性の人よりブン屋的人だということもよくわかった。それだけでも有益であったと考えておくべきか(笑)。 

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