1998年3月 9日 (月)

モバイル旅行にでかけた

   雨は雪にかわるのか。
 PC110という携帯コンピューターを買い、モバイルができるようになったので、旅にでることにした。
 ことの起こりはこうだ。夜中に友人とワインをきこしめしているうちに温泉だという話になった。ふつうならパンフレットがないとか、本で調べようということになり、翌日になれば、きれいさっぱり忘れているというのはよくある。
 ところがいまはインターネットがあるのだ。「温泉、温泉、温泉」とわめきつつインターネットをうろつく。しばらくして「うめや」という旅館のホームページを発見。フロント、風呂、部屋などが見られるようになっていて、見ているうちに、もう行った気分。とどめに米沢牛のすき焼き写真を見て、もーいくけんねとメールを送りつけた。それも明日泊まるという内容だ。ダメならあきらめようということだったが、OKということで翌日には出発というのだから、インターネットおそるべしだ。
 その出発の朝から雨なのだ。なんでも発達中の低気圧が3つもやってきていて、日本上空で待ち合わせをして大暴れをしてやろうというのだからたまらない。
 行こうとしている山形県の小野川温泉は雪だという。それも風雪強しとのことだ。
 無事にたどりつけるのか、この旅はカーナビゲーションにまかせることにした。目的地を設定。ふてくされた女声でナビゲーションがはじまる。
 おいおい、のっけからどこへ連れていこうというのだ。温泉とは反対方向へナビされる。練馬へ連れていかれ、東京外環道で東北道へというコースらしい。最初からいえつーの!
 東北道は予想に反し晴天だ。どこが雪やねんといってると那須をこえたところで雪となった。しかし、そんなことにはおかまいもなく皆ブイブイ飛ばしていく。雪で80キロ制限になっているが、その速度で走っていればどんどんと抜かれていく。どうなっておるのだ。
 こうして雪で動けなくなることもなく米沢へ着いてしまった。朝8時半に出発し、午後1時には着いてしまったから4時間半の行程だ。もっともオレには車に乗ると1時間おきにオシッコがしたくなるというくせがあるので、サービスエリア各駅停車の結果だ。オシッコががまんできる人ならもっと早く着けるだろう。
 こんな性格だから、ラリーのナビゲーターなどはできそうもない。パリダカの篠塚選手の映像をテレビでみたが、ナビのひげのおっさんがが「トイレしたい」といったのに対して「ホントか? ホントにしたいのか」と問いつづけ、とうとうあきらめさせてしまった。時間が勝負の世界だから、その気持もわかるが、あのおっさん、もらしてないか人ごとながら心配になってしまう。
 こちらは有無をいわさず「トイレ」だ。ダメといわれようなら、ここでする、もらしてしまうといいつづけ、むりやりトイレ休憩だ。だから、おまえと旅をすると時間がかかってしょうがないといわれている。
 そんなことはどうでもいい。米沢市内だ。まずはソバを食う。日曜の昼間とあって泣き叫ぶガキ、おばさんの団体のなかで食う。盛りが東京の二人前ぐらいあった。つゆはカツオだしのきいたもので甘味も少なく、硬派なものだった。いっしょにでてきた漬物もうまかったぞ。
 市内で観光するものといったら上杉神社ぐらいしかない。ここは上杉謙信ゆかりの土地だったのだ。雪道をすべりながらたどりついた。なにかがあるわけではないが、一応拝んでおく。ほかにすることはない。
 そのあとはお約束の酒蔵見学だ。利き酒をして、全部の酒の味をみてみる。申し訳ないので、いちばん安いやつを2本買う。これはケチなのではなく、それがいちばんうまかったからなのだ。
 これで温泉へむかうことになったのだが、時間はまだ午後3時。着くには早いとなった。ならば、おやつということになり、ステーキを食うことにした(笑)。
 おやつにステーキとは馬鹿ものの極みである。しかしまぁ、食うと決めたのだ。ナビの声はルートをはずれているよといいつづけているが、かまわずにねずみの学習テストのような路地をぬけ牛肉屋へ。ここの二階でステーキを食わしてくれるのだ。営業時間が夜の7時までというのは東京では考えられない。
 飯と汁はいらんからステーキだけをくれという。特選のヒレを食べたのだが、やわらかくうまい肉だった。これがりんごを食って育つという米沢牛かと思うとりんごの甘味を感じるから不思議だ。
 ステーキを食い温泉につく。まずは浴衣をきて温泉だ。これは定番。
 温泉は硫黄分のあるたいへん熱いものだった。なんでも源泉は70度ちかくあるらしい。それを温泉成分が薄まらないように熱交換機を使って、暖房などの熱源としたのちに、温度のさがったお湯を風呂へいれているとのことだ。ここらへんパンフの受け売り。
 温泉からでてビール、これも定番。さてとモバイルしようとPHSをとりだすと電波が届いてない。やはり無理だったかと思うがあきらめきれずに、PHSを手持ちで部屋のあちこちへ動かす。まるでガイガーカウンター状態だ。しかし、どこへ動かしても電波は受信できない。こうしてモバイル計画はあっという間に挫折してしまった。
 夕食にすき焼きを食べ、あと、できることといえば酒を飲むことだけだ。こうしてモバイルツァーはただの酒飲みツァーとなってしまったのである。
 これじゃ、いつもの旅と変わらないではないか。

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1998年8月24日 (月)

おのみちはいつかきた道

8月×日

 ぼくのともだちの、とうほうのタナカチャンがおおばやしかんとくのえいがのしごとで、おのみちへいっているので、ぼくもあそびにいくことにした。

 おのみちはとてもあついところだった。だまって立っていても、ジーパンのなかであせがドロドロとながれていく。一日のうちで。なんども着替えをしないと汗まみれになってしまうのだった。

 タナカチャンは、えいがのしごとで、美術の小道具をたんとうしている。なんだかよくわからないが、ひとりで、ひいひいといっているようだった。きっさてんのこもんのおじさんも、こぐんふんとうといっていた。

 ぼくは、タナカチャンと遊んでもらえないので、とてもつまらなかった。そこで、神戸にいるさっきょくかのがべじんくんをよぶことにした。

 がべじんくんはくるまでやってくるという。朝の9時ごろにでんわがかかってきて、あと3時間でくるというので、ぼくは、サティへ買い物にいくことにした。

 あつさでぐったりしたので、げんきをつけようと、サティでリポビタンAを飲んだりしていると、ぼくのぴーえっちえすの電話がなった。がべじんくんがおとうとのしんちゃんといっしょにおのみちとへついたみたいだ。

 がべじんくんたちとホテルでおちあって、さっそく観光へでかけることにした。まずは、らーめんをたべることにした。おのみちには、広島県人もまぼろしだという、しゅかえんというらーめん屋があるのだ。しゅかえんへいくと、たくさんのひとがならんでいた。ふだんはならぶのはいやだけど、ともだちがいるのでならぶことにした。

 やく20ふんぐらいならんで、みせにはいることができた。らーめんは、むかしはチキンラーメンみたいだったのが、しょうゆのあじがこくなっていた。でも、がべじんくんは「おいしいおいしい」といって、すーぷまで、ぜんぶのみほしていた。ぼくもひさしぶりだったので、すーぷをぜんぶのんでしまった。ういていた、ぶたのせあぶらはあまかった。

 そのあとは、ロープウェーにのって、せんこうじ山にのぼった。山の頂上につくと、そこには展望台があった。おのみちのけしきがいちぼうできるばしょだ。

 そこで、けしきをみているうちに、ともだちのたかしくんに手紙を書こうというはなしになった。それは、でんしめーるというものらしい。

 もっていったリブレットで、めーるを書いた。しらないおじさんにみられて、ぽすとぺっとというそふとなのが、なんだかはずかしいとがべじんくんはてれていた。

 そこで、おーい、たかしくんも遊びにおいでよと書いためーるを、ぴーえっちえすでいんたーねっとにつないで送信することに成功した。

 あとで、たかしくんはとても怒っていた。しごとちゅうなんだからあそびにはいけないんだということだったけど、ぼくたちはおとなのいうことはわからないや。

 よるはタナカチャンと、いっしょにぎょくせんというお店へいった。なんでもあるお店で、おこのみやきからすてーきまであって、どれもがおいしかった。とんぺいやきやおでん、そばもうどんもあった。

 こんなお店、東京にはないぜとがべじんくんはいっていた。そんなものかなーとぼくはおもった。こんどはいっぱいたべるおともだちのこといっしょにくればいいのにとおもった。

 よくじつは、ぼくひとりでえいがのさつえいげんばへいった。タナカチャンはひとりで、ふーふーいいながら。しごとをしていた。たいへんそうなので、てつだってあげることにした。FRPでできたにせもののみろくさまや、おおきなしゃしんをはこんだ。

 にもつをはこんで、おべんとうと汁をもらった。それから、そうこへしまいにいって、みつぎという山のなかの家のロケ現場へいった。せまいみちをぬけてたどりついた家は、りっぱな家で、なんだかとてもなつかしい気がした。そこでコーラをもらってのんだ。

 なん年かぶりでのんだコーラは、小学3ねんせいのときにはじめてのんだときのようにふしぎに新せんなあじがした。あついところでは、ふだんではわからないことを魔法のようにみせてくれるらしい。

 このえいがも、魔法でゆめをつくっているのだと感じた。えいがのタイトルは「あの、夏の日」という。とてもあついおのみちの夏だった。おわり。

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1999年1月 4日 (月)

見知らぬ街

 正月に実家へ帰ったついでに、30年ぶりに小学校への通学路を歩いてみたら、あまりの変貌ぶりに、ただ驚くしかなかった。
 小学生のときに住んでいた家は今はなく、マンションになっていた。家があった通りは、まがりなりにも商店街だったのだが、今では店もなくなり、ふつうの住宅街になっている。道の雰囲気はガラリと変わってしまっていた。
 今はマンションになっている、当時の家の前から歩き出す。しばらく行くと、道の左手には牧場のあった土地があったのだが、ここもマンションになっていた。
 牧場といっても、私が小学生になる前につぶれてしまい、その後は、駐車場、工務店の仕事場、瓦置き場と、つぎつぎに変貌していった土地だ。ここのなかを通っていくのが、風呂屋への近道だったが、その道もなくなっていた。たぶん私道だったのだろう。
 その牧場跡をすぎると、バス通りにぶつかる。昔はただの通りだったが、今では二丁目バス通りなどという名前がついている。それならバス通り裏はどこにあるのだとつっこみをいれたくなる。
 バス通りを渡ると、お菓子屋と中華料理店がある。中華料理店といっても名ばかりで、実体はラーメン屋だが、ここのオムライスはうまかった。中華鍋にさっと広げられた卵にチキンライスを入れ、さっとくるんだやつにケチャップをトロリとかけてあるだけだが、なぜかうまかった。洋食屋のものよりうまかったので、オムライスはラーメン屋にかぎるなどと信じていたものだ。
 その店を右手に見ると、道の左手は川崎市営バスの上平間車庫となっている。コンクリートの塀をずっとたどっていくと、左へ曲がる道があらわれ、小学校へとつづくはずだったのだが、その道はなくなっていた。
 そのあたりは、昔は国鉄アパートだったのだが、現在は、特別養護老人ホームが建設されていた。アパートは跡形もなくなっているため、アパート内の道もなくなっていたのだ。ということは、私道が通学路となっていたということになる。
 この国鉄アパートには、友達が数多く住んでいて、敷地のなかで、缶ケリや鬼ごっこなど、いろいろな遊びをした記憶がある。
 道がないので、さらに歩を進めると、土手が目前にせまってきた。子供のころは、遠い場所にあると思っていたが、大人の足で歩けば、かなり近い位置に土手はあったのだ。この土手を越えれば、多摩川の河川敷だ。
 とりあえず河川敷をめざすことにする。土手の中腹には、道路ができていて、多摩川大橋とガス橋をつなぐ道路として、クルマがひっきりなしに走っている。信号もなにもないので、タイミングをみはからって、土手へダッシュする。小学生のころに、この道を渡らなくてはならなかったら、かなりな確率でクルマに轢かれていたのではないだろうか。
 土手の上から、河川敷を見ると、野球場や陸上トラックなどがある公園になっていた。かなりの広さだ。子供のときに、台風の翌日などは、河川敷一面が川になっているのを見たことがあるが、えらい面積が水浸しになっていたことになる。
 そのまま土手の上を進み、小学校の裏門へとつづく道への階段から降りることにした。階段を降り、せまい道をたどっていくと、学校の柵が見えてきた。昔はコンクリート塀だったのだが、今ではスチールの柵になっているのだ。
 柵ごしに見える光景がどうも違うと、近づいてみると、校舎は建て変わり、位置も変わっていた。昔、校庭だった場所に校舎が建ち、校舎だったところが校庭となっているのだ。昔の面影はなにもない。
 自分が通っていた学校だと証明できるのは、学校名だけだ。校舎も、校庭も、まわりの景色も、まったく記憶にないものだ。自分がこの街に住み、ここへ通っていたのかもあやしくなる。
 山や森、川は、長期にわたっても姿を変えることがない。だから故郷の景色なのだろう。都市部では、街はそこにいたことすらわからなくなるほど刻々と姿を変えていく。これでは、いくら生まれ育った土地とはいっても、故郷とはなり得ない。
 それにしても、小学6年生のときに、学校行事で校庭に埋めたタイムカプセルはどうなってしまったのだろう。 

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1999年7月12日 (月)

温泉へ行きたいけれど

 くたくたになっている。こんなときには、温泉につかってのんびりしたいという考えが頭をかすめるようになる。

 仕事に締め切りがないのなら、このままフラっと温泉へでも行きたいものだが、温泉旅館に泊まることを考えたとき、いちばんおっくうなのは食事だ。

 ホテルならば、食事はないのだが、旅館となると1泊2食つきなどと、料理がセットになっている。この料理のことを考えると気が重くなってしまうのだ。

 旅館へ泊まるということが日常とは違う状態だから、ハレの日の食事ということで、ふだん家で食べているものと、どれだけ差をつけるかということに主眼をおいてつくられていると解釈できるが、その差のつけかたが量である場合が多い。

 好き嫌いが多いということもあるが、えんえんとつづくオードブルのような旅館の食事には、うんざりとしてしまう。なにやら小さな器が何品もならぶのだ。そして、そのほとんどが、こちらの嫌いなものであることが多い。

 まず、刺身がだめなので、これらはパスだ。マグロの赤身なら、オリーブオイルとガーリックで焼いて食べたりかるのは好きだが、なぜか刺身というと、とても魚らしいものになる。かんぱちとかそういったものは苦手なので食べない。鯉もだめだ。さらには鯛になるといちばん苦手なものだ。

 酢の物。これもだめだ。魚の煮付けたもの。これは頭のところでなければいいのだが、なぜか頭付きが多いので、箸をつけない。

 わらびやぜんまいといった山菜も好きではない。そのうえ、香りの強い野菜も苦手だ。

 なんだか、書いていて、食べられるものがほとんどない気分になってきた。

 あとは、なんだかよくわからん1人前ずつの鍋だとか、陶板による焼き物とか、こうしたものにも食指は動かない。

 ミニステーキがつく場合もあるが、これになにやらソースがついてくる場合がある。デミグラスソースであったり、大根おろしによる和風のものであったりするが、ただの塩と胡椒だけで食べたいときもあるし、ガーリック醤油で食べたいときもある。選択の自由はなにもないのだ。

 旅館側の理屈はよくわかる。大人数の食事を用意しなければならないので、注文ごとに別の調理をしていては効率が悪い。

 余談だが、大量調理の知恵というのは江戸時代からあるらしい。おおぜいの泊まり客がいる旅館では、焼き魚を出すのに、焼いていたのでは時間がかかりすぎて食事時間に間に合わない。そこで、いっきにゆでてしまい、最後に焦げ目だけをつけるということがおこなわれていた。これで、うまいのかね?

 あとは、料理の数の多さもなんとかしてもらいたいものだ。最初からずらーっとならんでいると、とても食欲のでるものではない。うわーっと思ってしまうだけだ。

 食料事情のよくない時代からしつけられているので、食べ物を残すのには罪悪感がある。かといって全部食べられるわけではない。なんとなくいやな気分だけが残るのだ。

 こういう理由で、なかなか旅館へ行こうという気分にはならない。最近では、酒を飲んで、つまみを食べているだけで、ゴハンはいらない状態となることが多い。

 旅館での理想の食事としては、汁物が1腕、ごくふつうのもので奇をてらったものでないほうがいい。これにゴハンと、おかずが1品。この1品は後々まで記憶に残るなにかということになる。刺身はいらない。これだけで十分だ。もちろんうまいものであることは当然である(といってもあったかいゴハンに「のりたま」だけでもうまいしなぁ)。

 こんな食事をだす旅館はまずないだろう。全国の旅館関係の方々、なんかうまい手を考えてくださいよ。えんえんとつづくオードブルのような食事問題が解決されれば、すぐにでも温泉へでかけますです。(仕事終わったらね) 

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