1998年4月 6日 (月)

マヨネーズかけゴハン

 通りすがりに、若い女の子が「マヨネーズをゴハンにかけて食べるのって信じられなーい!」と言っているのを聞いてしまった。

 俺が育った昭和30年代は、戦後は終わったと言われていたが、都会でもない地方都市では、まだまだ貧しいのが当たり前だった。

 氷に砂糖をまぶして食べたり、味噌をつけてにぎったおにぎりや、フライパンで冷やごはんを炒め、醤油で味付けした醤油炒めライスは貧乏っぽくうまい代物だった。

 ちなみに醤油炒めライスは喜国雅彦の『傷だらけの天使たち』というマンガのなかで、貧乏な親子を描いた4コマのネタに使われていて、醤油炒めライスを食べようとする子どもを制して「それはオカズだ」と父親が言う回には大笑いしてしまったけど。

 そしてマヨネーズゴハンである。

 ほかほかと湯気のたつ、炊きたてのゴハンの上にチューブからニュルルとしぼりだしたマヨネーズをかけて食べるのもすてがたい味だった。醤油や味噌と違って、マヨネーズはふんだんにあるものではなく、ちょっと高級品だったところが、それをより魅力的なものにしていたのだ。

 時は流れて昭和50年代。バイトで通っていた先には、大学生がたくさんいたが、その中の一人が「マヨネーズをかけたゴハンがこの世でいちばんうまい」と力説していた。

 そこまで言わなくてもとは思ったが、否定してしまうこともできない気分で、同意を求められるとあいまいに笑うしかなかった。

 貧乏な学生にとっては、醤油やソース、マヨネーズは立派にめしのおかずだったのだ。

 それから20数年、1億総グルメといわれる時代だ。ガキでさえ、アマトリチアーナだのアラビアータだのといった料理や、バルサミコだのなんだのといった調味料のことを食べて知っている。

 ついにマヨネーズごときでは、ゴハンにかけて食べることも信じてもらえなくなってしまったのだ。オリーブオイルをパンにひたひたとかけ、バルサミコをちょっとたらして食べるというのは信じているのだろうか? 昭和30年代のガキなら、誰も信じないような食べ方だ。信じなくてもいいから、世の中にはいろいろな食べ方があるのを認めなさい。

 いいものを思い出させてもらったと、その日、マヨネーズを炊きたてのゴハンにかけて食べてみた。いまとなっては死ぬほどウマイというものでもなかったが、家のすきまをすりぬけ路地裏で遊んだことや、味噌おにぎりを作ってくれた、友達の亡くなったお婆ちゃんの顔をなぜか思い出した。

| | トラックバック (0)

1998年6月 1日 (月)

幻のハンバーグ

 どうしても忘れられないハンバーグがある。1970年に大阪で開催された日本万国博覧会のドイツ館の外で売っていたハンバーグだ。

 価格的にもシチュエーションとしても、いまでいうならファストフードというところだろう(このときにはマクドナルドは日本に出店していなかった)。炭火で焼いてあり、つけるものはマスタードだけという簡単なものだったが、とてつもなくうまかった記憶がある。

 それは、中が肉そのものの赤い色味をしていたので、当時の常識としては、生焼けのハンバーグは食べてはいけないということで、まわりだけしか食べさせてもらえなかったから、よけい鮮明に憶えているのかもしれない。あのときに、全部食べたかったという思いが強く作用しているのだろう。

 あのハンバーグは、牛肉100パーセントのものではなかったのだろうか、それで中がレアの焼き加減になっていたのかと考えられるようになったのは最近のことだ。

 当時のウチでつくるハンバーグは合い挽き肉を使い、つなぎに食パンを牛乳に浸して柔らかくしたものも入っていて、肉以外のものもかなり多く入っていた。

 それを焼いてから、さらにケチャップやウスターソース、コンソメで煮込んでしまうものだったのだ。これは2日めぐらいのものがうまかった。

 そんなものをハンバーグと認識していたのだから、炭火でまわりが黒くこげ、カリカリとして、中がレアなどというハンバーグは異質の食べ物だったのだ。

 もういちど食べたいと思っても、ドイツへ行くしかないのだろうか? いや、行ってもあるとはかぎらない。その後、ハンバーグを見るとつい、あの味に近いものはないかと試してしまうことがつづいている。

 まず、ドミグラスソースがかかっているようなものは失格だ。炭火で焼く専門店へ行ったときに、わざわざソースはかけないで持ってくるように頼んだのだが、出てきたものはどうも違う。

 店で出てくるものがダメなら、自分でつくってみようとやってみたが、これもうまくいかない。ハンバーグというとかんたんなもののようだが、なかなかうまいものにするにはむずかしい。

 考えてみると、ハンバーグはこれだけポピュラーなもので、定食屋から高級料理店。冷凍食品からレトルトまで、さまざまなところにあふれかえっているというのに、ひとつの望む味がないのはどういうわけなのだ。

 それとも、こちらの思い入れが強くなりすぎてしまって、数十倍に美化されてしまっているのだろうか?

 できるものなら、1970年に戻り、あのドイツ館のハンバーグを、今度は誰にも止められずにまるまる全部食べてみたいものである。

 食べ終わったなら、つぎはデザートとして、万博のオーストラリア館でミルクセーキを飲む。このミルクセーキもとてつもなくうまく、現在まで匹敵するものは……。
 

| | トラックバック (0)

1998年7月20日 (月)

ところかわれば嗜好もかわる

 人が、うまいまずいというとき、生まれ育った環境によっては、同じようにうまいと思うかは微妙なところだ。

 出雲へいったことがある。ソバがうまいから、ぜひいこうという誘いにのってである。

 のこのことついていき飛行機に乗せられた。空港へ着くなりいきなりそばだ。立ち食いをためしてみる。黒くて歯ごたえのあるそばだが、東京と違うのは、そばのゆで汁といっしょに、どんぶりに入ってくる。そば湯のなかでそばが漂っているという風情だ。ここへ、そばつゆをかけて食べるのである。

 みようみまねで、食べてみる。うまい! と叫んだかというと、そうではない。あれ? という感覚がおそってきた。なんだか甘いのだ。これはそばつゆにみりんとか使いすぎたんだなーと思いつつ、唐辛子(七味ではない)をドバドバとかけて食べてしまった。

 翌日、こんどは盛りを食べてみる。やっぱりつけ汁が甘い。そばはいいのだが、砂糖づけにして食べているようでいただけない。

 謎が解けたのは、いかの刺身を食べたときである。醤油が甘いのだ。関東風の醤油と違い、どろりとした感じで甘みがかなり強い。同じように味噌も甘かった。

 これは、この地方の味の伝統なのだ。宍道湖のしじみのみそ汁は、その味噌の甘みとしじみの味があいまって、おかわりしたくなるほどうまかったが、醤油の甘いのだけは、関東育ちの者には合わなかった。

 これは、うまいまずいではなく、文化の違いなのだ。後でわかったが、出雲地方では、甘いとうまいが同義語で使われている。よって、おいしいもの=甘いものとなる。だから、調味料も甘味方面へ横滑り状態だ。

 その後、出雲へ行くときは、東京から醤油とそばつゆを持参し、店の人間の目を盗み、入れかえるという極悪非道のさすらいの食いしん坊となったわけだが、そこには、麺は、しこしこつるつるしているものという、日本人なら同じじゃろという暗黙の了解があるからできる技なのだ。

 これが外国ではどうなるのかといえば、最近、ネパールではインスタントラーメンが大流行しているという。ところが、日本のように、お湯をかけて3分間待つのだぞと同じように考えてはいけない。

 まずは、袋のまま叩き、なかの麺を粉々にしてしまう。それをお湯で煮るわけだが、ドロドロニチャニチャになり水分がなくなるまで煮込む。それを皿に盛り、スプーンでいただくという寸法だ。

 これなどは、カップラーメンにお湯を入れたら、すぐに食べだしたある女の子が聞いたら卒倒しそうな話だ。どうして3分待たないのだと聞いたら、「だって麺がのびるといやじゃん」という答えだった。

 これでは、チキンラーメンかじりながらお湯飲めばいいじゃんと思うほどの暴挙だが、これほど麺の歯ごたえにこだわるのは、日本人とイタリア人だけではないかと思うぞ。

 日本以外のアジアの麺は、どちらかというとうどんの仲間だ。もう、ドロドログチャグチャにして、つゆも吸いきってしまって堕落したやつの冷えたのを食べたいなどと、奈落の底へ落ち込むような食べ方も許してもらえそうな気配がある。

 ネパールでのインスタントラーメンは、オートミールと同じとらえかたをされているのではないだろうか。しかし、冷えたやつをお弁当に持っていくのだけはやめてほしいと思うのだが、現地の人にとっては大きなお世話だろう。

 なにがうまいのかってことは、生まれ育った土地と文化で決まるものなのだから。

| | トラックバック (0)

1998年8月 3日 (月)

ハードボイルドだど

 7月29日の新聞に『たまごの願い』という広告がだされた。最近、食中毒の元凶として悪玉視されている卵について、正しく理解してもらおうという内容だ。

 卵にはサルモネラ菌がいて、食中毒を起こすので食べないようにしようという話が、消費者のあいだに広く浸透していることを憂慮してだされたものらしい。

 すべての動物には、腸内に寄生している菌がいる。われわれの腸のなかにだっているのだ。これらが肉や卵についている場合がある。他の動物の肉や卵を食べている以上、そうした菌が体内にはいることをいつも想定していないといけないだろう。

 実際、卵5000個~10000個にサルモネラ菌が1~2個の割合でみつかるそうだ。だが、必要以上に心配するものではない。対処方法ははっきりとしていて、ちゃんと加熱すれば菌は死ぬことになっているからだ。

 これで、こわがって食べなくなったり、使わなくなったりするのが困るのだ。75度以上で1分間加熱すれば菌は死ぬ。この75度以上というのは、黄身が固まる温度だ。ハードポイルドといわれる固ゆで卵にすればいいのだ。

 なのにである。ある食堂ではオムライスをやめ、またある菓子店では、卵を使ったケーキ類をつくるのをやめたという。

 その店の店長が、食中毒の危険性のあるものは客にだせないとインタビューに答えていたが、その店のオムライスは卵を生で使うのだろうか? 半熟状態のオムレツは、サルモネラ菌がいた場合に危険がある可能性があるだろうが、十分に加熱してしまう卵料理まで怖がってもしかたがない。

 ケーキにいたっては、200度近いオーブンで15~20分近く焼くのだ。中まで火は通るわけで、これで菌が生き残るとは思えない。

 カスタードクリームがつくれないので、シュークリームもやめたとのことだが、カスタードクリームも加熱しないものなのだろうか? 牛乳と卵と小麦粉をぐつぐつ煮ながらかきまぜてつくるものではなかったか? 熱は十分に通っていると思うが、まちがっていたらもーしわけない。

 こーなると、月見そばや月見うどんのほうがあぶない(実際に中止した店があるそうだ。やれやれ)。卵が半熟状態のカツ丼や、親子丼はどーするのだ? ゆで卵や目玉焼きでさえ、黄身は半熟で供されることが多い。

 ゆで卵の黄身がねっとりとしているのをスプーンですくい、目玉焼きの黄身に口をつけてチューチューと吸う。オムレツやカニ玉は切るとなかからトロリとした半熟部分がながれだしてくる。

 ところが、おれは、そういうものを食べると胃が痛くなるのだ。半加熱卵タンパク質アレルギーかもしれない(そんなものがあるかしらんが)。そこでゆで卵はハードボイルドにし、スクランブルエッグよりは炒り卵、オムレツよりは薄く焼いた卵を年輪のように巻き付けていくだし巻卵のほうが好きだ。

 ついでにいうと、たらこも明太子も焼いてしまう。さすがにイクラは焼けないな。そういうことをしていると、そんな食べかたをするのは味音痴という目で見られてしまう。なにがいかんのだ

 食べ方についてはこれぐらいにするとして、このままでは、卵の消費が少なくなり鶏卵農家の生活も成り立たなくなる。生活苦や破産などのひどい状況となってしまうことも考えられる。

 卵を使わないというのは、客の健康を気づかっているかのように思える行為だが、その本質は違うところにありそうだ。これは村八分や差別といった考え方と根本的には同じものだと思うのだ。食品の安全というよりも、穢れという発想でしかない。困ったものにはフタをしてしまえという考え方だ。

 まぁ、夏場の生ゴミにかぎっていえば、ちゃんとフタをしてもらいたいと思うが。 

| | トラックバック (0)

1998年12月 7日 (月)

甘い辛い

 高校のときに所属していたクラブでは、新入生が入部してくると、ある通過儀礼があった。文化系のクラブだったので、運動部のようなしごきはない。それでも、つらく苦しい通過儀礼だ。

 まず、クラブが終わったあとに、新入生たちをひきつれて、駅前の不二家へいく。おごってやるぞということで、新入生たちの目は輝いている。しかし、新入生たちに注文をする自由はないのだ。

 テーブルにつくなり、上級生はコーヒーなど、思い思いのものを頼む。そして、新入生にはプリンホットケーキが人数分注文される。

 でてきたそいつは、ホットケーキのうえにプリンが誇らしげに鎮座し、まわりにはホイップした生クリームの飾りが施されている。

 なんだ、いい先輩ではないかと思うのはまだはやい。このプリンホットケーキには、1皿につき3種類のシロップが、大量についてくる。これを全部かけるのだ。

 新入生たちは、えーっという顔になるが、まだ甘く考えている。甘いシロップの怖さをまだ実感してないのだ。甘く考えるのもシロップは甘いから当然だが。

 皿のなかでは、シロップの海ができ、ここへホットケーキが浮いた状態になっている。これを全部食べるのだ。

 最初はいいのだが、だんだん甘さがくどくなってくる。新入生たちの顔に冷や汗が浮かんでくるころをみはからって、この世でいちばん甘い食べ物はなにかという話をする。コーヒーをひとすすりして、「ま、湯プリンだね」と言う。

「四角く切ったプディングをシロップの液にいれて、あたためる。そしてカラメルシロップにつけて食べるんだよ。薬味は砂糖がいっぱいついている赤や緑のピールとかだな」

 すでに新入生たちは気持ち悪い顔つきだ。飲み物は飲んではいけないから、口の中は甘ーくなっている。コーヒーや水は飲ませてあげないのだ。

 こうして、しばらくは、甘い物の姿も見たくはなくなるという次第だ。

 第2段は、今度はメシをおごってやるという。甘いのはいやですよと言われると、今度は甘くないと答える。それで安心したかのように、新入生たちはのこのことついてくるのだ。

 学校の裏手の焼き肉屋へいく。間違っても焼き肉などは食べない。高校生には金がないのだ。なににするかというとカルビクッパを注文するのだ。今度は、上級生、新入生ふくめて全員同じ物だ。

 これを見て新入生たちは、ひどいことはないだろうと安心するが、すでに考えが甘い。こちらは、事前に店のおばちゃんとは話がつけてあり、こっちは普通の辛さのやつで、新入生のやつは、10倍~20倍と、とびきり辛くなっているのだ。

 全員の前にカルビクッパがならび、一斉に食べ始める。新入生たちは、一口すすった瞬間、ぎょっとした顔になる。

「辛いですぅ」などと言おうものなら、「この辛いのがうまいんだよ。な、うまいだろ」と上級生同士であいずちを打つ。「こんなにうまいものが食えないのか」などとすでに威嚇モードだ。

 人が食べているのだからと、無理して食べていると、顔や頭から汗がポタポタとしたたり落ちるようになる。
「スープも全部飲めよ、うまいんだから」と、こちらもむさぼり食う。

 新入生たちは「ひー」とか「かれー」などと言いながら食べているが、だんだん言葉少なくなっていく。しまいには、泣き出してしまう者さえ出る始末だ。辛さに耐えかねて泣いてしまうというのを初めて見た。

 こうした儀式を通過して、仲間と認めてあげるのだが、後の高校生活に役にたったかどうかはわからない。人生が甘くもなく、それほど辛くもないことがわかるのは、さらに十数年、齢を重ねたときだからだ。 

| | トラックバック (0)

1998年12月14日 (月)

茶碗蒸しのルーツ

 この一週間のうちに、ひとつ歳をとった。男の厄年といわれている年齢に突入してしまったことになる。
 歳をとるにつれ、味の好みも変わってくるのか、若いころには見向きもしなかった料理が無性に食べたくなることがある。
 いま、つい食べてしまうものに茶碗蒸しがある。だしと卵でふわふわとしていて、なかには、海老、かまぼこ、ぎんなん、しいたけ、鶏肉などが入っていて、みつばが上にのっている。これを電子レンジであたためてはいけない。ちゃんと蒸し器であたためなおし、スプーンですくって食べるのだ。
 卵のなかから、いろいろな具があらわれるのが、なんとも楽しい感じがする。こんな料理は、いつ、どこで考案されたのかと思うが、じつは、この茶碗蒸しのルーツはよくわからないとのことだ。
 1634年に出版された、日本最古の料理専門書である『料理物語』に「玉子ふわふわ」なる料理のつくりかたが掲載されているという。卵を割り、卵の量の3分の1ほどのだしとたまり、煎り酒を加えて、よくふかして出す。堅くなってはいけないとある。いまでいう卵豆腐の先祖である。
 これに魚や鳥のももなどを入れると、「野ぶすま」という料理になるそうだ。しかし、茶碗に入れて蒸すことはしなかったようだ。
「茶碗蒸」ということばがあらわれるのは、1749年発行の『料理山海郷』という書物だ。ところが、卵を使った茶碗蒸しとは違うものであるという。ハモの皮でだしをとり、ハモの肉とすり身をまぜ、茶碗にいれて蒸し、葛あんをかけて、ワサビをそえて食べるものとある。
 江戸時代前期~中期では、茶碗に入れて蒸した料理の総称を茶碗蒸しと呼んでいたらしい。うなぎの茶碗蒸し、山芋の茶碗蒸しなど、茶碗にいれて蒸したものは、みな茶碗蒸しだったのだ。
 現在のように、茶碗に具を入れ、卵を入れて蒸しあげた料理が出現するのは、1764年発行の『料理珍味集』とのことである。
 この本に、茶碗の内側を油でふき、葛を塗り、具を好みにまかせて入れ、玉子を堅くして蒸ししめる「長崎パステイラ」という食べ物が紹介されている。だしは加えず、堅く蒸す。茶碗からプリンのように取り出して食べるということで、現在の茶碗蒸しとは違う食べ物のようだが、茶碗を入れ物に使い、卵と具を入れて蒸す点では、現在の茶碗蒸しと同じ料理法だ。長崎では、茶碗を割って食べるとある。なんとも大袈裟な料理だ。
 パステイラとはなにものなのかというと、南蛮料理のパステーラとのことであるという。パスタとも関係があるようで、小麦粉を練ってのばした生地のなかに、具をいれて包み、揚げた料理とのことだ。
 こうしてみると、パステーラと長崎パステイラは、名前こそ同じだが、まったく違う料理のようだ。
 茶碗に入れて、食べ物を蒸すこと全般をさす茶碗蒸しが、現在のような食べ物になったのは、19世紀のことである。
 1803年~1806年にわたって刊行された『素人包丁』という本に、アナゴの付け焼き、ネギ、キクラゲ、ぎんなん、栗を茶碗に入れ、溶き卵に醤油で味付けした「茶わん蒸」という料理が登場し、それはうなぎの茶碗蒸しよりもおいしいとされている。
 この後、茶碗蒸しといえば、現在のように卵を使ったものとなっていったらしい。
 茶碗蒸しを食べるたびに、ルーツは謎であるという話を、頭のなかで蒸し返してしまう今日この頃である。 

| | トラックバック (0)

1998年12月21日 (月)

まぼろしのトンカツ

 高校3年の夏に父親が病に倒れるまで、実家は八百屋を営んでいた。
 したがって、母親は専業主婦ではない。店の従業員兼主婦であり、母親なのである。
 他の主婦が、晩御飯の買い出しに来店するころがいちばん忙しい。わが家の夕食は、その合間をぬって用意される。客の応対をしながらつくるので、当然、手の込んだおかずなどはなかった。
 たいていは、鍋ひとつでできる煮物が1品、みそ汁、それにお新香といったところだ。友人の家でみる、何品もおかずがならぶ食卓は、信じられない光景だった。
 そんな状況だから、揚げ物のたぐいを、家でつくってもらったことはない。つきっきりで調理しなくてもすむものしか、つくることはできなかったのだ。
 では、揚げ物のたぐいはどうしていたかというと、外で買ってくるのである。この買い出しは、小学校3年生のころから、私の役目だった。
 揚げ物は、タケウチという肉屋へ買いに行った。2ブロックほど離れたタケウチへ行くには、ちゃんとした道を通らず、駄菓子屋のヨシダとヤマザキパンの間の路地をぬけていくのが近道だった。
 コンクリートで塗り固めた部分が途切れ、土の上にドプのふたに使うコンクリートの板が、飛び飛びに敷いてあるところまでくると、換気扇の音と、揚げ物を揚げる香ばしい匂いがただよってくる。
 揚げ物はタケウチが一番だというのが、わが家の見解だった。事実、町内に肉屋は何軒かあったものの、タケウチのコロッケやメンチカツ、ハムカツ、ホテトフライはとてもうまかった。
 タケウチの店のつくりは、大きくわけてふたつの部分からできている。中央の奥まった扉をはさんで、右側が精肉の部分だ。精肉部といっていいだろう。白いタイルでつくりつけになった冷蔵ケースには、スライスされた肉やハム、ポテトサラダやマカロニサラダがならんでいた。
 部屋の中央には、ハムをスライスする機械が鎮座し、その後ろには木にステンレスの板を張った冷蔵庫があった。なかには、豚や牛の枝肉がぶらさがっていた。
 店の電球は100ワットほどの明るさで、その光のなかで肉がさばかれていく姿は、壁に映る影の姿と相まって、とても幻想的な光景だった。
 店の左側は、揚げ物のコーナーだ。総菜部である。白いタイルづくりは共通しているものの、大きなフライヤーや蒸し器、揚げ物の陳列ケースがあった。陳列ケースには、揚げ物の他にシュウマイが陳列されていた。
 タケウチのコロッケは、じゃがいものみ。昼前にいけぱ、じゃがいもをつぶしている姿をみることができた。コロッケのなかに、ところどころ黒いものがあるが、それは、じゃがいもの皮だ。ちょっとホロ苦いそれがアクセントとなり、ラードでこんがりとキツネ色に揚がったコロッケは絶品といっていいほどのできだった。
 そのコロッケを基準としてしまうと、いままで、それに匹敵するコロッケは食べたことがない。世の中には、下世話だがうまいものがあるのだ。何種類もの食材や特製ソースなどを使ったものに比べ、手がこんでいるわけではない、しかし、プレーンなうまさというのもあると思うのだ。おかげで、いまだにコロッケにはソースをつけないで食べるのが身についている。
 夕食の買い出しにいかされるときには、こうした総菜を買うのが目的ではない。特注品でトンカツを揚げてもらうのだ。トンカツを注文すると、まず精肉部で、店のおじさんが、一定の厚みのある豚肉を下ごしらえしてくれる。それを総菜部にいる奥さんに渡し、トンカツに揚げるのだ。別注文なので、衣をつけるときに、卵を新たに割って、溶き卵をつくってくれるのが誇らしかった。
 子供の私に買い物にいかせるのは、親にはある程度の損得勘定があったらしい。なぜなら、私がいくと、必ずオマケをしてくれたのだ。
 肉の固まりをハカリに乗せ、金額にあったピッタリとした重さにするのはむずかしい。たいていは重量オーバーだったが、おじさんは「おまけだよ」と言って、それをトンカツにしてくれたのだ。
 揚げている間、学校はどうだとか、他愛もない話をしていたと思う。そして、揚げたてのトンカツやコロッケを紙袋にいれてもらい、路地を通って帰るのだ。
 この買い物は、長くは続かなかった。タケウチのおじさんは、私が中学にはいる前に突然亡くなってしまったのだ。
 じつのところ、私が肉を食べられるようになったのは中学生以降だ。こどものころには、なんとも獣臭さを感じて、身体が受けつけなかったからだ。だから、買いにはいっていたが、タケウチのトンカツを食べたことはない。いっしょに買って帰る、ハムカツやコロッケ、ポテトフライしか食べなかったのだ。
 おじさんが亡くなって、タケウチは店をたたんでしまった。あのコロッケやハムカツ、ポテトフライは二度と食べられなくなってしまった。それより、あのトンカツを食べてみることができなかったのが、返す返すも残念である。家族の話によれば、それはそれは、とてもうまかったとのことである。
 おじさんの「おまけだよ」というときの笑顔を想い出すたびに、食べなかったことが悔やまれる。

| | トラックバック (0)

1999年6月28日 (月)

辛味入汁掛飯のうんちく

 男の料理というと、どうしても自慢の種にすることや趣味性が強くなる。
 そばを打ち始めれば、道具もさることながら、そば粉はどこがいいとか、水はどこがいいなど、うんちくの嵐になっていく。これは、暑い季節になると食卓にのぼるカレーについても同じことがいえる。
 何種類のスパイスをまぜあわせただの、フランス風だのイギリス風だの、本場のインド風だの、これまたうんちく合戦となる。
 カレールウを使うカレーは、イギリスが発祥の地だから、ルウを使うカレーでインド風というのはおかしい気もするが、ならば、カレー粉だったらいいのかというと、そうでもないらしい。
 カレー粉は、イギリスのC&B社が開発、販売した商品だ。何種類かのスパイスをまぜた粉ということである。余談だが、日本のS&B社は、このC&B社のカレー粉の増量剤を研究するところから始まった。カレー粉に、干したみかんの皮など、足しても大幅に味が変化をしないものを作るところから会社はスタートしたという。これは、カレー粉は高価だったので、量が増えれば、そのぶんだけもうけになるということからだ。そうこうしているうちに、本格的にスパイス研究をするようになり、自前でカレー粉をつくるようになったというわけだ。
 ところで、カレーのスパイスが何種類もはいっているのは自慢になるけど、これ以上削ったらカレーではなくなるという最低限のスパイスはご存じか?
 国立民族学博物館館長で、食の文化人類学が専門の石毛直道さんによれば、トウガラシ、ターメリック、ショウガだそうだ。この3種類が入っていればカレーと認めるにやぶさかではないとしている。
 このうち、トウガラシは南米原産だから、スペインの探検隊が15世紀にヨーロッパへ持ち帰ってくるまでは、この世界になかった香辛料だ。
 それ以前にも、インドではカリーを食べていたわけだから、その時代にもカリーとしての条件を満たす最低限のスパイスがあったに違いない。ターメリックやショウガは昔からあったはずなので、あとは辛味をだす香辛料だけだが、インドには胡椒があった。それで辛さをだしていたのだ。当時の胡椒は高級品で、それを探すだけで戦争になったりしたものだから、たいへんなものである。余談だが、韓国のキムチも、トウガラシが発見されるまでは、胡椒で辛くしていたとのことである。なんとも高級品だったのだ。
 シルクロードを伝って、聖徳太子の時代に日本にも、インドのスパイスが入ってきている。奈良の正倉院宝物殿には、当時のスパイスが宝物として保存されているという。となれば、聖徳太子も当時のカリーを食べていた可能性がある。
 日本でカレーが普及したのは、第2次世界大戦のときに、軍隊に行った男たちが、除隊後に「辛味入汁掛飯」と呼んでいたライスカレーの作り方を家庭に持ち込んでからだという。そのときの具である肉、タマネギ、人参、ジャガイモは日本式カレーの定番となった。これにウスターソースをダボダボとかけ、生卵を落として食べるというのは軍隊帰りの父親がよくやっていた食べ方だ。
 こうして、カレーライスは、多くの人数分を鍋ひとつでつくることができることから、学校行事やキャンプなどでまたたく間に普及した。そうやって日本全国津々浦々までひろがっていくわけだ。
 私は小学生のときに、肉類や人参など、嫌いなものが多かったが、最初にそれらを食べられるようになったのは、カレーライスからだ。このように、肉の獣臭さやあくのある野菜の味をすべて隠してしまうようなスパイスの力は、日本で洋食が導入されたときにも発揮されたにちがいない。
 食べ慣れない獣肉を包み込み、下にはおなじみのゴハンがある。これには安心感がある。あと問題となるのは、黄色い色とドロドロとした見た目だけだ。これはあんかけと思えばいいわけだし、香辛料の正体は漢方薬と変わらないので、匂いについてはそう抵抗もなかったのだろう。
 こうしてみると、カレーライスというのは、すでに和食なのである。となると、だしの取り方や包丁さばきにうんちくをたれなければいかんのだろうか。素材の味を活かしましたとか……。自分の経験では、素材の味を殺してくれたから、それら獣肉や野菜を食べられるようになったものだが。 

| | トラックバック (0)

1999年8月16日 (月)

代用食の日

 子どもの頃、わが家では終戦の日になると 、きまってある食べ物がだされた。
 それは「すいとん」なんである。戦争中には米の代用食として食べられていたものだ。小麦粉を水で溶き、おつゆのなかへいれて固めたものというのが基本的な姿だ。
 親にしてみれば、戦争の記憶を風化させないため、という意図があったとのことだが、とにかく8月15日には「すいとん」ときまっていた。ふつう、こうした熱い汁物は、冬場のものなのだが、暑い夏にこうしたものがだされるのが、子どもの頃にはわからなかったのだ。
 家でつくる「すいとん」には二種類あって、味噌仕立てのものと、醤油仕立てのものがあった。どちらになるかは、その時になってみないとわからない。
 戦争(もちろんこれは第二次世界大戦のことだ。京都人がこないだの戦争のことを応仁の乱といったのにはひっくりかえったが)を体験した人々によれば、代用食であった「すいとん」はひどくまずいものだったとのことだ。
 野菜もなく、庭にはえているような雑草をなべで煮て、だしもなく、ただのうすい醤油味や塩味のつゆに、小麦粉をゆるく溶いたものを流しこんだものがうまくないのは、よくわかる。
 それでも、戦時中は、それを食べるしか食べ物はなかったのだ。母親は、少女時代が戦争末期だったとのことだが、成長期で食べ盛りの時に食べるものがなかった。
 疎開をしていた先では、大きな釜でごはんを炊いていたそうだが、その釜の底にできた「おこげ」でもいいから食べさせてほしいと頼んだという。もちろん、食べさせてくれるわけはない。
 そんな記憶が大きく残っているからだろうか、終戦の日には「すいとん」しか食べさせないという風習がわが家にできることとなった。そして、戦争中は食べるものがなかったという話もいっしょに語られるのだ。
 なにも具のない汁に「すいとん」だけでは、いかにもまずそうだが、わが家のものには野菜がはいっていた。夏場なので、キャベツ、にんじんといったものにくわえ、あと数種類の野菜がはいっていたのではないかと思う。
 私がまだ幼いころには、戦争が終わってから、まだ十数年しかたっていなかった。そのころにつくられる「すいとん」は、まだ戦争中のものに近かったのだと思う。
 ところがである。戦後も終わり20年以上の月日が流れると、時代は高度成長期となっていた。家庭での食べ物も豪華になり、食べられるものも変化していた。家庭の食事でも洋食がつくられるようになり、ハンバーグだのグラタンだの、コロッケといったものが、食卓にのるようになっていたのだ。
 こんな時代になると、家でつくる「すいとん」も昔のままというわけにはいかない。すいとんの小麦粉の生地には、だしがくわえられるようになった。さらには、卵もはいり、後年には、バターをねりこむという、アメリカの進駐軍に占領され、洗脳されたのかと思われることもくわえられ、わりと「うまいもの」に変身してしまったのだ。
 だいたい、1年に一回しか食べられないものだったので、子どものころには、この「すいとんの日」がくるのが、待ち遠しくなっていた。なぜ、一年に一回しか食べないのか不思議だった。もっとつくってくれればいいのにと思っていたが、大きくなるにしたがって、ようやく理由がわかってきた。
「すいとん」のつくられるのは8月15日であり、その日は「終戦の日」であり、日本がアメリカその他を相手にした戦争に負けた日である。だから、戦争の悲惨さを忘れないために、貧しくまずいものを食べ、いつまでも記憶にとどめようという意図があったのだ。
 だが、状況がゆるすなら、人はいつでも「うまいもの」を食べたがるらしい。そんなわけで、姿形は、「すいとん」なのだが、その実体はわりとうまいものという建前と本音状態になってしまったのだ。
 しかし、まずいままにしておかないと、これを食べるために、毎月「終戦の日」あればいいのにと子どもが考えてしまう危険もある。「終戦記念」もとい「終戦祈念」の日は、やっぱり1年に1回あるだけで十分すぎるほどだ。 

| | トラックバック (0)

1999年8月30日 (月)

ゴールデンコンビ

 この夏には、仕事の都合で印刷所にカンヅメになるということをした。カンヅメとは、文字通り、そこにずっといなくてはならない。
 食事の時間ぐらいは、シャバの空気が吸えるだろうと思っていたら、そこには社員食堂があったのだ。これで、外へでるという口実は通用しなくなった。
 勤めたことはあるが、社員食堂のある会社に勤めたことはない。いちど出社すれば10日間は帰れなくなる会社や、まったく自由に出社しても、文句をいわれないようなところでしか働いてこなかった。会社にタイムカードがあっても、いちども押したことがない。時間で金がもらえるわけでもなく、残業にも金はつかない。ようは、仕事があがりさえすればいいのだろうというすさんだ気持ちになっていたからだ。
 そんなことだから、社員食堂というのは新鮮だった。そうした施設は、高校の学食いらいのことだった。
 その日のメニューは、シュウマイ、キャベツ、焼きそば、春雨の中華風酢の物にごはん。それとみそ汁とお新香だった。食べているうちに、高校の学食が懐かしく思い出された。
 高校時代、家では弁当をつくってくれなかったので、昼飯は学食ですます。卒業時のメニューは、Aランチ200円、Bランチ180円、カレーライス150円、そば、うどんが50円だった。これに生卵が30円で、月見そば、うどんにすると80円となった。また、カレーをかけてカレーそば、うどんにすると100円だった。
 Aランチは弁当箱スタイルで、日替わりでおかずが2品はついていた。たとえば、まがいものだらけのハンバーグと、ちくわの天ぷらといったものだ。これにわずかばかりのキャベツの千切りと、昆布の佃煮といった内容である。
 Bランチは、おかずとメシの2皿がセットになっていた。これも日替わりだが、おかずはちくわの天ぷらとかアジフライといったものと、千切りキャベツといったものだ。
 カレーライスは、ほとんどカレー粉がつかわれていないような、小麦粉によるとろみのついた黄色いドロっとしたもので、辛味をおぎなうために、唐辛子粉が入っていた。具はほとんどタマネギとジャガイモとニンジンで、肉の姿を見るのは、よほど幸運だった場合だけだ。
 これとそば、うどんは、かけの状態で、刻んだネギと天カスは自分でいれた。
 これ以外に、夏には冷やし中華もあったが、ほとんど食べた記憶がない。
 小遣いはもらっていなかったので、毎朝、家をでる時に300円をもらってでかけた。200円のAランチとジュース(30円だった)などを飲める金額ということで手渡されていたのだ。学校までのバスの定期はあるので、これだけの金があれば、立派に1日学校ですごすことができた。残った金が小遣いとなった。これを貯めて本を買ったりしていたわけだ。
 200円という予算で食べるというと、最高でもAランチを頼むということになるのだが、Aランチはそれほど食べた記憶がない。学食でのいちばんの組み合わせは「カレーとそば」に決まっていたのだ。
 Aランチはおかずは多いが全体の量が少ない。Bランチはおかずに難ありといったところ。そば、うどんだけでは心もとない。カレーもそれだけでは単調な食い物だ。こうした不満を解決してくれるのが「カレーとそば」なんである。
 学食は出足が勝負だ。4時限めが終わって、10分もしてたどりつけば、ほとんどの食い物が売り切れている。残っているのはそば、うどんという状態だ。そうなると、やけになってそば、うどんの両方を注文し、卵を入れて(この時間だとネギや天カスも終わっていることが多い)、2杯たいらげるしかない。だが、これはすぐに腹がへるのである。6時限めが終わって、クラブ活動のころになると、すでに腹が減っているのだ。
 その点、カレーとそばの組み合わせなら、クラブが終わる6時(通っていた高校には定時制があったので、それ以上はいられなかったのだ)まで、じゅうぶん腹もちするのである。だから、4時限めが終われば素早く学食をめざす。授業が長引くと絶望的な気分となった。反対に早く終われば天国にいる気分だ。4時限め終了時刻より5分早く学食へいけば、食べたいものがなんでも買えた。
 安さと量を満足させるものとして(うまさは問わない)、カレーとそばの組み合わせは、男子生徒のなかではいちばんの人気だった。ゴールデンコンビと聞くと、学食の黄色いカレーとそばの組み合わせが懐かしく思い出される。黄色いカレーの色はまさに腹ぺこ少年にとっては黄金色だったのだ。
 こうした、味も問わず、カレーとそばという量主体の組み合わせで食べられるのは、若い時だけのものだ。歳をとると、量が食えなくなってくるので、うまいものをほんのちょっとだけ食べたいという気持ちが強くなってくる。たまには、カレーとそばを食べてみようかなどと、ふと考えたりもするが、若さはもう戻ってはこないのだ。

| | トラックバック (0)

1999年11月29日 (月)

コンビニしゃぶしゃぶ

 夜中にコンビニへ買い物へいき、アルミ箔のなべで暖めるソバやうどんにまじって、「しゃぶしゃぶ」をみつけた時にはのけぞった。とうとうここまできたか。そういう思いがこみあげてきた。
 その昔、しゃぶしゃぶは高級料理だった。なかなか食えるものではない。俺が実際にしゃぶしゃぶを食べたのは、22歳の時だ、それ以前に食べたことはない。
 若者には金がない。吉野屋の牛丼は食べられても、なだ万のスキヤキは食べられない。それと同じように、しゃぶしゃぶはまったく天上界の食べ物だった。
 その時、しゃぶしゃぶを食べられたのも、当時の仲間内に働いて稼ぐ者があらわれたからである。
 10代後半から、SFにハマり、小松左京研究会というファングループに所属していた。そのなかから、マンガ誌の新人賞に入賞した、とり・みきが出現した。いち早くプロの世界へと旅だっていったのだ。
 アシスタントとして、ベタ塗りやスクリーントーン貼りを俺とタキタ君が手伝っていた時期がある。その時に、意を決したように「しゃぶしゃぶを食べに行きましょう。金はなんとかなります」と、とりさんが言い、3人で食べにでかけることになった。
 渋谷にある店だった。入り口で値段をみて、何度か躊躇し、おそるおそる店へ入った。
 大きな座敷には、ずらりと、ガスコンロが埋め込まれたテーブルがあった。いまにして思えば、大衆的な店だったのだが、すでに雰囲気にのまれて、3人はカチカチに緊張していた。
 しゃぶしゃぶを注文し、見慣れない煙突がついた鍋が置かれ、出汁が張られると、パニックとなった。いったいどうやって食べるものなのか、ひそかにまわりを観察した。野菜は鍋に入れる、肉は出汁のなかでゆらゆらとさせて、たれにつけて食べるということがわかった。
 鍋に野菜を入れ、また出汁が沸騰してくるのを待った。ぶくぶくとあぶくが立つようになった。意を決して、皿にある薄く切られた肉を箸でとり、出汁につける。2~3回ゆらゆらと動かすと、肉の色が赤から灰色っぽく変わった。そのタイミングで引きだし、ごまだれにつけて口へ運ぶ。口いっぱいにごまの風味と肉の味が広がった。
「うんまいいーーーい!」
 3人は興奮し、口々にうまいだの、おいしいだのと叫んでいた。しかし、こんなものはめったに食べられるものではないという悲しい現実にも気がついていた。
 肉をいとおしむようにゆっくりと食べながら「おいしいけど、めったに食えるものじゃないよなぁ」という会話となった。こうなると止まらない、
「貯金をして、せめて1年に1回は食べられるようになりたい」だの、「つぎに食べられる時はくるんだろうか?」「死ぬまでにもう一度は食べたい」という悲しい会話となった。半分は本気だが、すでに誇張した演技の世界へと突入していた。いかに貧乏な若者たちが、しゃぶしゃぶを食べ、その貧富の無情さに嘆くかという構図だ。
 3人で1皿の肉を追加し、大事そうに食べていると、となりの席のアベックが、帰りぎわに「私たち、お肉残しちゃったんですけど、食べます?」とたずねてきた。3秒の躊躇ののち、ありがたくいただくことにした。
 それほど、悲惨な若者たちにみえたのだろうかと思うと、ちょっと恥ずかしかった。
 その後、働くようになると、事あるごとにしゃぶしゃぶを食べた。うまい店、それなりの店があることもわかってきた。神戸の店では7人で30人前ほど食べ、仲居さんに「もうおやめなさい」と注意されることもあったし、大阪でノーパンしゃぶしゃぶを食べにいった仲間もいた。また、100グラム3000円の肉を500グラム食べ、緊張のあまり、それをすぐに便器へもどしてしまった者もいた。
 これらはみな、非日常的な状態、つまり「ハレ」の時の食べ物としてしゃぶしゃぶがあったから、そうなったといえるのだろう。しゃぶしゃぶを食べるということで非日常へとおもむき、そして日常を再確認するという行為が行えるのだ。
 コンビニの480円のしゃぶしゃぶでは、どうみても日常である「ケ」の食べ物だ。非日常への旅、異常なことは起こりそうもない。
 このように今日では、非日常を薄め、日常へ持ち込むことが行われている。ニコチン、タールの少ないタバコや、酒の水割り、高級食材の大衆化、地方の名産のインスタント化、異常な世界もゲーム画面で家庭内にあふれるなど、薄められた非日常があふれているため、ハレとケの区別がなくなってきている。
 こうした社会には、非日常のはけどころがなくなり、日常の生活の中に異常な出来事が突出するようになるのだ。この先、へんな事件が増えまっせ。

| | トラックバック (0)