モノをつくる力
たいくつな千年紀の終わりと、新たにたいくつな千年紀のはじまりを迎えている。
どこのテレビ番組もやたらだらだらと長いだけで、とても見るに耐えうるものではなかった。となると、ついついこんなことを考えてしまう。
「そろそろ、モノをつくる力がなくなってきてるんとちゃうやろか」
そう思ってしまうのである。この、どうにもつまらない状況は、どこから発生しているのか。
ひとつには、自分が歳をとってきて、いろいろなことに感動もうすれ、興味を失ってきたからと考えることができる。
もうひとつの考えは、本当にできてくるモノがつまらないという考えだ。
マスで配信されるもの、雑誌、テレビ番組で心動かされるものがほとんどなくなった。とくに創作物では、全滅に近いといっていいほどつまらないものばかりだ。
モノをつくる側にいる人間が、こんなことを言っていてはいけない。ならば自分でつくれとなるところだが、自分でも、すでに自分の考えるものに面白みを感じなくありつつある。
創作物をオリジナルでつくれるのは、本当の天才だ。たいていは、それができないから、過去のものを自分の内部に取り込み、再生産して吐き出す。自分を含めて、大多数の人はそうした創作物をつくっている。
それに、どうも面白みを感じなくなってしまった。テレビから流れてくるものでは、ある種のフレーバーだけは残っているものの、とてもうすくうす~く、うすまってしまっているようで、どうでもいいようなメッセージが流れてくる。
これは、他の分野でも同じことだ。絵画、デザイン、音楽、小説、イベント。どれもが常識の殻を打ち破り、心を動かすほどの力を失ってきているように感じる。
こうなると本質的な作品は生まれてはこない。外部を飾るデコレーションにわずかな差をつけてみたり、過去の偉大な作品の手順だけをなぞってみることが行われる。
創作物においては、そこに些細な差を見つけて楽しむことしか成り立たなくなる。なんとか形式とか、何式といったカテゴリーだけが生まれ続ける。
過去へ回帰せよ。作品をつくる原点にもどり形式を大事にせよという運動も起きてくるが、それはとても古く、新規のものではない。
原点回帰という思想は、すでに30年以上前から言われている。それから現在まで、モノをつくる力は、なにも復活せずに衰え続けている。
生物において、ものを複製再生産していく原動力は遺伝子である。ならば創作物は社会的遺伝子であるミームの役割と考えてもいいだろう。
遺伝子はどれほど長く複製されていくものだろう? ひとつの遺伝子には、最初から終焉に向けての時限装置が含まれている。
ミームにも、自己を消していく機構があるのだろうか? それとも、あまりたくさん再生産されると、遺伝子としての力を失ってしまうのだろうか?
この先、人類最大の課題は退屈に対する方法になるかもしれない。
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