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2000年1月 3日 (月)

モノをつくる力

 たいくつな千年紀の終わりと、新たにたいくつな千年紀のはじまりを迎えている。
 どこのテレビ番組もやたらだらだらと長いだけで、とても見るに耐えうるものではなかった。となると、ついついこんなことを考えてしまう。
「そろそろ、モノをつくる力がなくなってきてるんとちゃうやろか」
 そう思ってしまうのである。この、どうにもつまらない状況は、どこから発生しているのか。
 ひとつには、自分が歳をとってきて、いろいろなことに感動もうすれ、興味を失ってきたからと考えることができる。
 もうひとつの考えは、本当にできてくるモノがつまらないという考えだ。
 マスで配信されるもの、雑誌、テレビ番組で心動かされるものがほとんどなくなった。とくに創作物では、全滅に近いといっていいほどつまらないものばかりだ。
 モノをつくる側にいる人間が、こんなことを言っていてはいけない。ならば自分でつくれとなるところだが、自分でも、すでに自分の考えるものに面白みを感じなくありつつある。
 創作物をオリジナルでつくれるのは、本当の天才だ。たいていは、それができないから、過去のものを自分の内部に取り込み、再生産して吐き出す。自分を含めて、大多数の人はそうした創作物をつくっている。
 それに、どうも面白みを感じなくなってしまった。テレビから流れてくるものでは、ある種のフレーバーだけは残っているものの、とてもうすくうす~く、うすまってしまっているようで、どうでもいいようなメッセージが流れてくる。
 これは、他の分野でも同じことだ。絵画、デザイン、音楽、小説、イベント。どれもが常識の殻を打ち破り、心を動かすほどの力を失ってきているように感じる。
 こうなると本質的な作品は生まれてはこない。外部を飾るデコレーションにわずかな差をつけてみたり、過去の偉大な作品の手順だけをなぞってみることが行われる。
 創作物においては、そこに些細な差を見つけて楽しむことしか成り立たなくなる。なんとか形式とか、何式といったカテゴリーだけが生まれ続ける。
 過去へ回帰せよ。作品をつくる原点にもどり形式を大事にせよという運動も起きてくるが、それはとても古く、新規のものではない。
 原点回帰という思想は、すでに30年以上前から言われている。それから現在まで、モノをつくる力は、なにも復活せずに衰え続けている。
 生物において、ものを複製再生産していく原動力は遺伝子である。ならば創作物は社会的遺伝子であるミームの役割と考えてもいいだろう。
 遺伝子はどれほど長く複製されていくものだろう? ひとつの遺伝子には、最初から終焉に向けての時限装置が含まれている。
 ミームにも、自己を消していく機構があるのだろうか? それとも、あまりたくさん再生産されると、遺伝子としての力を失ってしまうのだろうか? 
 この先、人類最大の課題は退屈に対する方法になるかもしれない。 

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2000年1月10日 (月)

OSの終焉

 近年のパーソナルコンピュータ戦争において、いちばんクローズアップされていたのはOSの争いだろう。
 いまんとこ、世界の大半のパソコンはマイクロソフト社のWindows(95/98/NT/CE)というOSで動いている。
 他にはMacOSや、最近急激に勢力を拡大しつつあるLinuxなどがある。もちろん、パソコン以外ではUnix系やTronなど他のOSもある。
 OSとはなにか? それはパソコンのハードを使うための命令を含んだシステムである。このOSで主権をとれば、世界中の数多くのパソコンで使用されることになり、多大な利益をあげることができる。
 マイクロソフトが、MS-DOS時代から進めてきた戦略は、Windowsにより、世界の大半のパソコンで使われることになった。それで、ビル・ゲイツは世界一の金持ちとなったのだ。
 こうして栄えてきたOSの勢力争いだが、どうも未来がなくなってきたように思える。
 昨今、パソコン人口を飛躍的にのばしたのは、インターネットの利用だろう。電子メール、Webブラウジング、チャットなど、コミュニケーションツールとしての利用がメインだ。誰もが数学的な計算をするわけでもなく、物理シミュレーションをするわけでもない。ましてやプログラムをするわけではなかったのだ。
 こうしたインターネットの普及に対して、各OSはインターネットとの親和性をアピールするようになった。
 しかし一方では、非パソコンにおけるインターネット利用も進みつつある。携帯電話もといケータイによるインターネット接続は、当たり前のものになろうとしているのだ。
 パソコンの使用目的がインターネットへの接続なら、すでにパソコンを使わなくてもいい状況となってきている。
 たとえば、ケータイを使い、インターネットに接続するのは、ボタンひとつ押すだけだ。これで、メールが使え、Webブラウジングもできる。これほど簡単なので、いまや、メールというと、ケータイを使ってのメールの方が一般的になりつつある。
 これに対し、パソコンではインターネットへの接続だけでも大変だ。TCP/IPだの、PPPだの、IPアドレスだの、DNSだの、POPだの、アカウントだのパスワードだの、さまざまな設定をしないと接続することができない。おまけにモデムなどハードの問題もある。
 なかには挫折して、つなげないままパソコンを押入に入れてしまった人もいるという。目的を達成する手段の段階でうまくいかないのだ。これではなんの意味もない。
 パソコンを使い、OSを使い、ソフトを使わないとインターネットひとつ利用できないわけだ。こんな環境には未来はないと言わざるを得ない。
 目的のためには、OSやソフトなどの手段は邪魔な存在だ。姿をまったく消したまま、やりたいことだけができればいい。
 ケータイはパソコンにはおよばないと考えているようだが、パソコンの世界で考え出されたネットワークコンピュータ、ウェアラブルコンピュータはケータイによって、2年以内に実現されようとしている。
 動画を見ること。音楽をネットで買い、聞くこと。電子メールの送受信。GPS。テレビ電話。表計算、ワープロなどの利用、今、パソコンでやっていることの95パーセントはケータイで事足りるようになる。
 もちろん、多少のハード、インフラの進歩は必要になるが、この部分に問題はないように思える。そのうえ最初から、パソコンが今頃になって目指しているコミニュケーションツールだ(笑)。
 そんな時代には、パソコンという箱は必要なくなるだろう。パソコンを使うのは、特定の仕事をする人か、酔狂な人、パソコンが趣味の人だけとなる。
 OSが前面に出てくる時代は終わり、これからは組み込みOSなどによって、できる事だけが問われるようになるだろう。いくら見た目を変えても、習得する必要のあるOSは消えゆく運命なのだ。 

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2000年1月17日 (月)

言葉にならないもの


 小乗仏教においては、自己の力で悟りに到達することを目標とする。
 悟りとは何か? それは非常に個人的なものである。悟りを得たからといって、超人になれるわけでもなく、超能力が使えるようになるわけでもない。ましてや位があがったり、級があがるわけでもない。悟り4級だから来年は3級に挑戦、1級で師範免状がもらえるなどということは決してないのだ。
 1回悟れば、なにもかもが解決するわけではない。その先も一生悟りつづけなければならないのだ。
 その昔、一度だけ悟りとはこういうものかという体験をしたことがある。なにも、寺にこもり修行をしたとか、あやしげなマンションの一室で飛び上がったりして経験したわけではない。ヒンズー語でしゃべる必要もないし、グルがいたわけでもない。
 それは真冬の夜のことだった。買い物へ出かけようと、部屋から出て、道を曲がった時に、目の前に美しく輝く星々が散らばる夜空がみえた。
 その時に、瞬間的に悟ったのだ。うわーと思いつつ、3歩ほど歩いたら、なにを悟ったのかはまったく忘れてしまった。後にはただ、悟ったという感覚だけが残っていた。
 悟りとは、たぶんこのようなものだろうと思う。これは言葉では伝達不能なものだ。
 言葉では、どう表現してもウソになる。小乗仏教においては、悟りに至るために知や知識も必要とされるが、それ以上に生活の中にある道筋のほうが重要視されている。
 知識は言葉や文字によって蓄えられる。言葉を使うこと、文章を書くことができることが、知性や教養と考えられているが、それらは本来の知に対しては、邪魔なもの、無用のものと考えられている。
 言葉は呪われたものとしてとらえられているのだ。芸術や文化の極地にあるものは、どれも言葉によらない表現が最高とされる。
 絵や音楽には言葉はいらないし、茶道において、茶室でのコミュニケーションには言葉は必要ないとされる。それでも心は伝わるとのことだが、テレパシーがない限り無理っぼい。
 こうした言葉によらないことが究極という理想をかかげてしまうと、言葉による芸術活動、知に対する探求をしている者には、どうしようもない虚無感に襲われる。
 なにもしゃべらんと、ただ座っているだけで落語にならへんやろか、と考えた枝雀師匠の深い闇の一端がわかるような気がする。
 言葉や文字を駆使し、知に近づこうとするが、その知は言葉を否定する。ここにはどうしようもない矛盾がある。だから、仏教のほうには方便という言葉がある。言葉などの道具を使って悟りに到達してもいいが、悟りに到達したら、その道具は捨てろというのだ。
 そこまで言葉は忌み嫌われる。言葉を使い生活する者、表現する者、芸にする者は呪われているのかもしれない。
 呪われた我が身と思いつつ、今日も駄文を書く。虚無がすぐとなりにある。

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