日常からの脱出
旅に出ていた。東京からはそれほど離れていない場所だったが、情報環境的には、首都圏とは大きな隔たりがあった。
もちろん、ノートパソコンは持っていったのだが、部屋の電話からは、うまく外へはつながらない。PHSも使えないため、通信をするのがおっくうになってしまった。
ロビーにおいてあるグレ電を使って、モデムで通信する以外、通信による情報を得ることができない。テレホンカードを使い、誰かが使用するのを待っているかもしれない電話機では、長く通信をしていることは気が引ける。メールのチェックだけですますことにした。
情報を入手するには、手元にそれらが集まりやすくないと、面倒になるものらしい。新聞も部屋にはなかったので、外界のことがまったくわからない。
夕食の時に、東京へ電話をした他人からの話で、タンクローリーが爆発したらしいとか、電車が止まっているなどという情報が断片的に伝わってきた。それで、くわしいことは? と聞き返すと、首都高速らしいとか、過酸化水素だというところまではわかったのだが、正確な場所や、状況はわからなかった。
タンクローリーの爆発と、電車が止まっていることに因果関係はあるのか? このふたつのことが単独で起きているのか? 別の大きな災害の一部ではないのか? 断片的な情報を元に考えていくと、いろいろなことが考えられた。
ひょっとすると、東京が壊滅するような大きな災害が起きているのではないか? その一部のことだけが、断片的に伝わってきただけではないのかと考えることも可能だった。
子供のころ、泊まりがけの林間学校や、修学旅行で家から離れると、このまま、帰る場所がなくなってしまうということをよく夢想した。
家や家族、日常の生活基盤である町内、そして、それらがある街が、地震やなにかの災害でなくなってしまうと考えたのだ。
帰る場所がなくなることは、悲しいと思う反面、気分をウキウキとさせてくれた。
これは、完全にひとりになるわけではなく、学校の仲間や先生がいっしょにいることの安心感からこのように考えたらしい。家での生活は嫌いだったのだ。
日常や普段のことを「ケ」という。このケに対し、普段と違う状態を「ハレ」という。結婚式など人生のうえでのイベントになる日を「ハレの日」というのはそのためだ。
子どもの日常では、朝、怒られながら起こされ、朝飯を食い学校へ行く。退屈な時間をすごしながら帰ってくると、手伝いをやらされ、ガミガミといわれながら夕飯を食べ、風呂へ行き、せかされながら寝るという生活の繰り返しだ。
こうした生活を壊してくれるのは、旅行というハレの状態だ。見知らぬ風景、場所へ行き、違うものを食べ、家族以外の共同生活者がいる。こうしたことはおもしろい状態だ。無意識のうちに、帰りたくないという思考が働くのも無理はない。それが、住んでいる街がなくなってしまうという考えになるわけだ。
だが、いつも日常の待っている街へ帰ってきてしまう。そうして、またつまらない生活がつづくのだ。変わらない普段の街や、周囲の人間、家族。こうしたハレからケへうつることが、思考ひとつで変化することがわかってきたのは、大きくなってSFを読み始めてからのことだ。
旅行に出ている間に、次元がずれた場所へ来てしまい、家に帰っても、それがいままでいた次元に属する世界の家ではないと考えると、目の前の世界が一変した。
ハレからハレの世界へ移動することを、思いこみひとつでできることがわかってきたのだ。日常がおかしいと考えることで、そこは非日常の世界として目にうつる。
そのまま違う次元で暮らしていると考えつづけることもできるのだ。こんな話をすると、他人は難儀な子だったんやなぁとあきれた顔をするが、大多数の人はこうした考えを根底に持っているに違いない。
だれもが、「本当の自分」「本当に自分のやりたいこと」「本当の性格」をさがしているという。ここにいるのはニセモノの自分なのだと思っている。ケの時の自分はホンモノではないと考えているのだ。
とはいっても、浴衣はだけて宴会でどんちやん騒ぎしてるのがホンモノというのもなぁ。
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