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1999年11月 1日 (月)

日常からの脱出

 旅に出ていた。東京からはそれほど離れていない場所だったが、情報環境的には、首都圏とは大きな隔たりがあった。
 もちろん、ノートパソコンは持っていったのだが、部屋の電話からは、うまく外へはつながらない。PHSも使えないため、通信をするのがおっくうになってしまった。
 ロビーにおいてあるグレ電を使って、モデムで通信する以外、通信による情報を得ることができない。テレホンカードを使い、誰かが使用するのを待っているかもしれない電話機では、長く通信をしていることは気が引ける。メールのチェックだけですますことにした。
 情報を入手するには、手元にそれらが集まりやすくないと、面倒になるものらしい。新聞も部屋にはなかったので、外界のことがまったくわからない。
 夕食の時に、東京へ電話をした他人からの話で、タンクローリーが爆発したらしいとか、電車が止まっているなどという情報が断片的に伝わってきた。それで、くわしいことは? と聞き返すと、首都高速らしいとか、過酸化水素だというところまではわかったのだが、正確な場所や、状況はわからなかった。
 タンクローリーの爆発と、電車が止まっていることに因果関係はあるのか? このふたつのことが単独で起きているのか? 別の大きな災害の一部ではないのか? 断片的な情報を元に考えていくと、いろいろなことが考えられた。
 ひょっとすると、東京が壊滅するような大きな災害が起きているのではないか? その一部のことだけが、断片的に伝わってきただけではないのかと考えることも可能だった。
 子供のころ、泊まりがけの林間学校や、修学旅行で家から離れると、このまま、帰る場所がなくなってしまうということをよく夢想した。
 家や家族、日常の生活基盤である町内、そして、それらがある街が、地震やなにかの災害でなくなってしまうと考えたのだ。
 帰る場所がなくなることは、悲しいと思う反面、気分をウキウキとさせてくれた。
 これは、完全にひとりになるわけではなく、学校の仲間や先生がいっしょにいることの安心感からこのように考えたらしい。家での生活は嫌いだったのだ。
 日常や普段のことを「ケ」という。このケに対し、普段と違う状態を「ハレ」という。結婚式など人生のうえでのイベントになる日を「ハレの日」というのはそのためだ。
 子どもの日常では、朝、怒られながら起こされ、朝飯を食い学校へ行く。退屈な時間をすごしながら帰ってくると、手伝いをやらされ、ガミガミといわれながら夕飯を食べ、風呂へ行き、せかされながら寝るという生活の繰り返しだ。
 こうした生活を壊してくれるのは、旅行というハレの状態だ。見知らぬ風景、場所へ行き、違うものを食べ、家族以外の共同生活者がいる。こうしたことはおもしろい状態だ。無意識のうちに、帰りたくないという思考が働くのも無理はない。それが、住んでいる街がなくなってしまうという考えになるわけだ。
 だが、いつも日常の待っている街へ帰ってきてしまう。そうして、またつまらない生活がつづくのだ。変わらない普段の街や、周囲の人間、家族。こうしたハレからケへうつることが、思考ひとつで変化することがわかってきたのは、大きくなってSFを読み始めてからのことだ。
 旅行に出ている間に、次元がずれた場所へ来てしまい、家に帰っても、それがいままでいた次元に属する世界の家ではないと考えると、目の前の世界が一変した。
 ハレからハレの世界へ移動することを、思いこみひとつでできることがわかってきたのだ。日常がおかしいと考えることで、そこは非日常の世界として目にうつる。
 そのまま違う次元で暮らしていると考えつづけることもできるのだ。こんな話をすると、他人は難儀な子だったんやなぁとあきれた顔をするが、大多数の人はこうした考えを根底に持っているに違いない。
 だれもが、「本当の自分」「本当に自分のやりたいこと」「本当の性格」をさがしているという。ここにいるのはニセモノの自分なのだと思っている。ケの時の自分はホンモノではないと考えているのだ。
 とはいっても、浴衣はだけて宴会でどんちやん騒ぎしてるのがホンモノというのもなぁ。 

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1999年11月 8日 (月)

日陰に生きて

 その借家の裏には、わずかばかりの庭があった。庭といっても、裏に建つアパートや隣家とのすきまにできた猫の額ほどの広さで、通路にもなっていた。
 陽もあたらず、1年中しめった匂いを漂わせている黒い土には、のべつ人が通るために大きな草の姿はなかったが、わずかに、家の土台とのわずかな隙間に、苔や身の丈の低い草が生えていた。
 その庭に面した借家のぬれ縁の脇には、小さく貧そうな椿の木があった。1年中陰になっているせいか、細く弱々しかった。
 そこへ、いつからか子猫たちがくるようになった。真っ黒とトラ模様、それに白に黒い模様のある3匹だ。まだ、よたよたとしか歩けないところをみると、生まれて間もないのだろう。
 季節は秋から冬になろうとしていた。日に日に寒さを増していくなかで、ぶるぶると震えながら3匹で身をよせている猫たちをみていると可哀想になり、餌を与えるようになった。朝のみそ汁のだしをとった後の煮干しだったり、わずかばかりの具が残ったみそ汁をかけた飯だったりした。
 餌にありついた子猫たちが、ぬれ縁から部屋のなかへ入ってくるのに、そう時間はかからなかった。警戒し、あたりをながめながら部屋の黄色くなった畳の上を、大きな頭との釣り合いがとれない軽い身体で、とことこと走りまわった。
 学校から帰ると、裏のガラス戸を開け、ぬれ縁の上から子猫たちを呼んだ。やってくると、部屋にあげ、新聞紙を丸めてつくった玉や、ひもでじゃらして遊ぶのが日課のようになっていった。
 雪がちらちらと舞う頃に、猫たちを家のなかで飼っていいかと母にたずねた。動物は世話をしないといけないんだよといわれたが、ちゃんと世話をすると答え、流しの脇の板の間にみかんの入っていたダンボール箱が置かれることになった。
 ダンボール箱のなかで、3匹の猫たちはともに生活することになった。この頃から、猫たちの成長に差がつきはじめていた。いちばん大きいのは黒い猫で、白に黒い模様のがつづき、トラ猫はいちばん小さかった。
 小さなダンボールのなかで、猫たちはじゃれ、暴れ、ケンカをした。ある日、トラ猫の左目が潰れているのに気がついた。じゃれているうちか、ケンカをした時に、他の猫のツメが入り潰れてしまったのだろう。いちばん器量のよい猫だったで、とても痛々しく思えた。
 片方の目がつぶれてから、小さなトラ猫の成長はますます鈍った。いつまでも小さな身体のまま鳴き声をたてていた。
 そのうち、大きくなった黒猫が、家に帰ってこなくなった。しみったれた餌に飽きたのか、他にいい家が見つかったのか、交通事故にあったのかは定かではない。
 庭には降った雪が溶けずに残り、根雪となっていた。そしてまた雪が降れば、それを核にして雪面が広がっていくのだ。裏庭に雪がつもった朝には、下駄や長靴の後が細い川の流れのように残っていた。
 小さなトラ猫は、いつもいじめられているようだった。そこで、白いやつとは別にすることにした。別々に餌をやらないと、いつも白いやつが大半を食べてしまうのだ。別にやっても、白いやつは小さなトラ猫にやった餌を奪いにきて食べるほどだった。そのたびに、白いやつの頭を叩き、叱った。
 流しの桶の水に薄氷が張るようになったころ、小さなトラ猫の様子がおかしくなった。ぐったりとしたまま、餌も食べようとしなくなった。
 ダンボール箱には、電気あんかが入れられ、小さな毛布がかけられた。数日がすぎても様子はかわらなかった。毎日、学校から帰ると、トラ猫に手を当て、元気になるように祈った。手のひらの下で、猫は弱々しく息をたてているだけだった。
 雪もやみ、薄日が差した朝、ダンボール箱のなかにトラ猫の姿はなかった。元気になってどこかを歩いているのかと思ったが、部屋のなかにその姿はなかった。父が、トラ猫は夜中にものすごく暴れて、板の間の上に真っ黒な便をして死んでいったとおしえてくれた。そして、庭の椿の根本に埋めたと言葉を続けた。
 ガラス戸を開けると、椿の根本だけが雪がなく、まわりには掘った時に飛び散った土が残っていた。小さく盛り上がった土には、消えてしまった線香の跡と、幾粒かのキャラメルがのっていた。椿の養分になるとしても、こんなに陽の当たらない場所では立派には育たないだろうと思った。
 その夜、生きていれば、これから先いっぱい遊んだり、おいしい物を食べたりできたであろう子猫のことを考えると、涙が止まらなくなった。ふとんのはしで涙をぬぐっても、すぐにまた涙はあふれてきて、天井の木目が水面のさざ波のように見えた。
 外からのほのかな明かりが差し込む、暗い部屋のなかでは、家族は寝静まり、柱時計だけが時の経過をつげる音をたてていた。 

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1999年11月15日 (月)

水底に沈む思い

 その若者と会ったのは、新宿の小さなバーでのことだ。
 現在では珍しいアナログ盤のレコードをかけ、それが「つまみ」のかわりという、老朽化した店には、古い新宿の店の面影があった。近寄りがたい銀座の店でもなく、ただ若い連中が騒ぐ店とも違う雰囲気だ。
 店自体も今風のきれいな店内ではない。いろいろな設備が壊れているか、まともに使えない。便所のドアの鍵も壊れているため、用を足す時には、手でドアを押さえながらでないと、いつ開けられるかわからないような店だ。だが、それが逆に自然と客同士の仲間意識を芽生えさせていた。
 店の中の様子を把握し、誰が飲んでいるのか、誰が便所に入っているのか、そうしたことは暗黙のうちに全員がわかっていた。名前はわからずとも、顔見知りである状態だったのだ。
 そんなことだから、近くに座った他人と会話がはじまるのもめずらしくなかった。たわいもない話から、演劇論、音楽論などが、時に気恥ずかしく語られていた。
 若者との会話の発端は、故郷がなくなってしまうとかそういったことを持ちかけられたことで始まった。
 聞いていくと、出身地である山奥の村が水の底に沈んでしまうということだった。
「水力発電をふくむ多目的ダムができるんですよ」
 工事にはとりかかっており、あと数年で完成するという。その時には、生まれ育った村は水の底というわけだ。
「どうして原発をつくらなかったんでしょうね」と若者はつづけた。
 遠く離れた都市のために、故郷を失う人々がいることをわかっているのでしょうか? そりゃ、人数的には千数百人のことだし、家の戸数にしても300軒に満たない。だけど都市の数十万人の人々のために、長年親しんだ場所をなくしてしまうです。多数決は正義なんでしょうか? そういった内容の話が後に続いた。
 原発という話も一時はあったそうだが、その建設に関しては、都市部でたいへんな反対運動がおきたという。いわく危険だということが大きな原因だ。いくら安全だと言われても、こないだの東海村の事故をみていれば、薄気味悪いに違いない。
 環境にやさしい、クリーンなエネルギーとのことで水力発電に決まったとのことだが「自然にやさしいってなんでしょう? 水没する地域の生態系というのはどうなんでしょうね。破壊されないとはいえないでしょう」と若者は話した。
 村の人々のほとんどは原発だったらよかったのにと願っていたそうだ。そうすれば、そこにずっと住み続けることができる。水没地域には、山ひとつ離れた場所に、代替の土地が用意されたが、先祖代々住んでいた土地がなくなるなら、都会へでるのもいっしょのことだと、そこへは移らなかった人々も多かったとのことだ。
「年寄りたちには酷ですよね。先祖代々の墓があり、そこへ入ることは、まったく自然な成り行きだったのに、ダメになってしまったんですから」
「だけど、君たち若い連中は、村は離れ、都会で暮らしたかったんだろう?」
「生まれ育った土地の光景がなくなってしまうこととは別問題です。帰れる場所があるということが心の支えになる場合もあるんですから」
「そんなこというなら、オレの生まれ育った家はもうないし、町並みも変わってしまった。通っていた学校だって、立て替えでまったく知らない校舎だ。なつかしくもなんともないね」
「都会はうつろうから、変わらないもののありがたみがわかんないんですよ。代謝し成長していくことしか頭にない。都市部に家を買ったって、絶対一生住めないと思いますよ」
「で、君はどうしたいんだ?」
「どうしようもないですよ。なんかいっても、故郷はダムの底になるし、原発や火力発電に切り替えてくれるでもなし。その理由が環境問題だというんだから、笑わせてくれるじゃないですか。都会の人の環境なんてそんなもんだ。環境って言葉はなんなんですか?」
「自分たちの住んでいるまわりがキレイだったらいいんじゃないのか?」
「原発は汚らわしいからつくりたくない。火力だと大気汚染や温暖化の問題があるからダメ。水だったら自然のものだからクリーンですか? 便利にはなりたいけど、危険と隣り合わせはイヤですか? そりゃ都合がよすぎますよね。現にこの東京の電気は、福島や新潟の原発でつくっているとのことじゃないですか。汚らわしいものは遠くにあればいいと思ってるんですかね」
 その時、カチっという音とともに、大型の製氷器のモーターが回転をはじめた途端、店の照明が落ちた。電力の過負荷に耐えられずブレーカーが落ちたのだろう。一瞬店内にはワァっという喚声が上がったが、しばらくして店内に照明が戻ると、なにごともなかったかのように営業は続けられた。
 明るくなると、隣りにいたはずの若者の姿はなかった。便所へでも立ったのかと思ったが、飲んでいたはずのグラスもなかった。テーブルの上に水気の跡もなく、グラスが置かれていた形跡はなかった。
 破れかけたビニールレザーが張ってあるスツールの足下には、小さな水溜まりができていた。その水を吸うように、古く変色した新聞が落ちていた。その記事の見出しには「ダム建設反対運動で1人死亡」という文字が読めた。
 グラスの中の酒を口に含むと、いくぶん苦みを増したように感じられた 

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1999年11月22日 (月)

占いとはなんだ

 占いなどというものは、あまり真剣にとらえないほうがいい代物だが、それでもやっぱり考えてしまう。
 あー、このけだるさはなんだ。と続けると著作権にひっかかるのかは不明だが、意味のわかる人は笑っておくように。
 でもって、占いだ。人は未来を知りたがる。人は過去しか知ることはできないことからの希望なんだろうか? 人は、現在と過去しか知ることはできないと思っているが、実際には過去のみしか知ることはできない。
 時間の流れは一方向であるし、人の感覚器官からの情報が脳で処理されて、はじめて外界がわかるという仕組みでは、過去以外知りようがないのだ。
 もっとも、時間の認識も脳の働きであるから、個人的には脳の働きひとつで、時間を逆転させて認識する場合がある。まさに時間が遡っていくのだが、これは、外界からの情報を脳のなかでちゃんとした時系列で組み立てられない時におこるものであるらしい。
 目覚ましが鳴って、起きるまでの時間が逆転して感じられたことがある。わずかな時間のことだし、寝ぼけていたから、そういう状態になったのかもしれない。
 長々と書いたが、結論はこうだ。「人は未来を知ることはできない」。
 こうしたことが、人に不安を抱かせ、希望を持たせたりする。先がわからないから、不安も希望も発生するのだ。
 ところが、なんとか先のことを知ろうとして占いは大昔から発展してきた。その系統はいろいろとある。無作為の現象を読みとろうというもの、過去から蓄積されたデータを未来にまで投影しようとするもの、ある違った体系の論理に当てはめてしまうものなどだ。
 星占いなどは、星の運行と星座、それらと、その星の配置の時に生まれた人が、どのような性格、人生を送ったかを調べて体系化していったように思える。これは血液型占いもいっしょだ。
 春に生まれた人はのんびりしている、夏に生まれた人はうるさい、などと、近くにいる人の性質を調べ、生まれた季節を聞き出したらそうだったということかもしれない。
 そうなると、後は細分化だ。ちょうど12星座がある。これを利用しようということになっていったに違いない。こうして仮説がたてられると、理屈づけとして、星座の由来などが利用される。戦いの神であるからとか、美の神であるからなど、それらしい理屈がつけられる。
 それでも当たらなかったに違いない。もともと当たるわけはないのだ。そこで、もっとわからん理屈が足されていくことになり、占われる人の現状になるべく近くなるような答えが出せるようになったのだ。
 星の角度が、日食だの月食だの、神々の不仲だの、いろんな手で占われる人の現状に近いことを言い表せれば、こっちのもんである。だから、未来はこうだと、後は決めつければいいだけなのだ。
 易などは、くじ引きみたいなものだ。当たりハズレを細分化していって、なんとなく、当たったかなと思わせるものだ。そのため、解釈の部分があいまいになっている。
 その卦は、井戸のなかの水ですと出たとしよう。これを解釈するのは、どうにでもなる。良くみせようとするなら、人々の喉をうるおす、だから人のために働きなさいとなる。悪くするなら、井戸水は涸れるとすればいいのだ。だから注意しなさいとなる。
 こんなわけだから、真剣に信じたりしないほうがいいよとなるわけだ。
 ところで、こないだから、うちの家にある5台のコンピューターにインストールされている別々の易のソフトが、ひとつの卦しか出さなくなった。別々のアルゴリズムの別の易ソフトが同一の卦を出す確率はどれぐらいなのだろうか? まったくないといえる事だと思えるのだが、それらが出した同一の卦には、なにか意味があるのだろうか。その卦は、恐ろしくてここには書けない。

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1999年11月29日 (月)

コンビニしゃぶしゃぶ

 夜中にコンビニへ買い物へいき、アルミ箔のなべで暖めるソバやうどんにまじって、「しゃぶしゃぶ」をみつけた時にはのけぞった。とうとうここまできたか。そういう思いがこみあげてきた。
 その昔、しゃぶしゃぶは高級料理だった。なかなか食えるものではない。俺が実際にしゃぶしゃぶを食べたのは、22歳の時だ、それ以前に食べたことはない。
 若者には金がない。吉野屋の牛丼は食べられても、なだ万のスキヤキは食べられない。それと同じように、しゃぶしゃぶはまったく天上界の食べ物だった。
 その時、しゃぶしゃぶを食べられたのも、当時の仲間内に働いて稼ぐ者があらわれたからである。
 10代後半から、SFにハマり、小松左京研究会というファングループに所属していた。そのなかから、マンガ誌の新人賞に入賞した、とり・みきが出現した。いち早くプロの世界へと旅だっていったのだ。
 アシスタントとして、ベタ塗りやスクリーントーン貼りを俺とタキタ君が手伝っていた時期がある。その時に、意を決したように「しゃぶしゃぶを食べに行きましょう。金はなんとかなります」と、とりさんが言い、3人で食べにでかけることになった。
 渋谷にある店だった。入り口で値段をみて、何度か躊躇し、おそるおそる店へ入った。
 大きな座敷には、ずらりと、ガスコンロが埋め込まれたテーブルがあった。いまにして思えば、大衆的な店だったのだが、すでに雰囲気にのまれて、3人はカチカチに緊張していた。
 しゃぶしゃぶを注文し、見慣れない煙突がついた鍋が置かれ、出汁が張られると、パニックとなった。いったいどうやって食べるものなのか、ひそかにまわりを観察した。野菜は鍋に入れる、肉は出汁のなかでゆらゆらとさせて、たれにつけて食べるということがわかった。
 鍋に野菜を入れ、また出汁が沸騰してくるのを待った。ぶくぶくとあぶくが立つようになった。意を決して、皿にある薄く切られた肉を箸でとり、出汁につける。2~3回ゆらゆらと動かすと、肉の色が赤から灰色っぽく変わった。そのタイミングで引きだし、ごまだれにつけて口へ運ぶ。口いっぱいにごまの風味と肉の味が広がった。
「うんまいいーーーい!」
 3人は興奮し、口々にうまいだの、おいしいだのと叫んでいた。しかし、こんなものはめったに食べられるものではないという悲しい現実にも気がついていた。
 肉をいとおしむようにゆっくりと食べながら「おいしいけど、めったに食えるものじゃないよなぁ」という会話となった。こうなると止まらない、
「貯金をして、せめて1年に1回は食べられるようになりたい」だの、「つぎに食べられる時はくるんだろうか?」「死ぬまでにもう一度は食べたい」という悲しい会話となった。半分は本気だが、すでに誇張した演技の世界へと突入していた。いかに貧乏な若者たちが、しゃぶしゃぶを食べ、その貧富の無情さに嘆くかという構図だ。
 3人で1皿の肉を追加し、大事そうに食べていると、となりの席のアベックが、帰りぎわに「私たち、お肉残しちゃったんですけど、食べます?」とたずねてきた。3秒の躊躇ののち、ありがたくいただくことにした。
 それほど、悲惨な若者たちにみえたのだろうかと思うと、ちょっと恥ずかしかった。
 その後、働くようになると、事あるごとにしゃぶしゃぶを食べた。うまい店、それなりの店があることもわかってきた。神戸の店では7人で30人前ほど食べ、仲居さんに「もうおやめなさい」と注意されることもあったし、大阪でノーパンしゃぶしゃぶを食べにいった仲間もいた。また、100グラム3000円の肉を500グラム食べ、緊張のあまり、それをすぐに便器へもどしてしまった者もいた。
 これらはみな、非日常的な状態、つまり「ハレ」の時の食べ物としてしゃぶしゃぶがあったから、そうなったといえるのだろう。しゃぶしゃぶを食べるということで非日常へとおもむき、そして日常を再確認するという行為が行えるのだ。
 コンビニの480円のしゃぶしゃぶでは、どうみても日常である「ケ」の食べ物だ。非日常への旅、異常なことは起こりそうもない。
 このように今日では、非日常を薄め、日常へ持ち込むことが行われている。ニコチン、タールの少ないタバコや、酒の水割り、高級食材の大衆化、地方の名産のインスタント化、異常な世界もゲーム画面で家庭内にあふれるなど、薄められた非日常があふれているため、ハレとケの区別がなくなってきている。
 こうした社会には、非日常のはけどころがなくなり、日常の生活の中に異常な出来事が突出するようになるのだ。この先、へんな事件が増えまっせ。

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