« 1999年7月 | トップページ | 1999年9月 »

1999年8月 2日 (月)

あいさつのマニュアル化

 最近、編集者からの電話のあいさつが気にかかる。とくに若い編集者からだと、
「お疲れさまです。○○編集部の○○です」か「ご苦労さまです。○○編集部の○○です」と、みな同じような紋切り型で会話がはじまる。

 受ける方としては、みなが同じようにあいさつしてくるところが気になる。これでは、ファストフードのマニュアルではないか。

 あまのじゃくなものだから、「お疲れなんぞしてないぞ」「仕事発注者にご苦労などといわれる筋合いはない」などと心のなかで悪態をついたりする。

 24歳で、この業界にはいってから、いろいろな編集者とつきあってきたが、みなそれぞれに電話での第一声には、その人間の特徴がでていた。

「ふっふっふ」だの「仕事しとるか」だの「ういーす」だの、「毎度」「わしじゃ」「寝てたか?」だの、それなりに状況を把握し、自分の考えで話していたように思う。

 それを、最初から「お疲れさま」では、編集者として、「すでに負けている」状態だ。物書きと編集者との間には、ある種の緊張状態が必要とされる。書いているものに対し、なにも理解の片鱗もみせず、ただ、原稿を持っていくだけなら、これはお使いでもできる。

 書いていることに対して、ある部分では物書きと知識を共有していないと、編集者としては意味がない。うかつなものを書くのではないぞという態度をみせていなければならないのだ。

 そこで、あいさつなんである。これは、物書きと編集者の勝負の第一歩となるものだ。どこまで現状を理解しているか、物書きの性質を知っているかで、どのように話すかが決まってくる。ボクシングでいえば、最初にかるくジャブをだしてみるという状態だろう。

 さぼり癖のある物書きになら、「おい、今まで遊んでただろう」だの「毎度、ところで昨日飲み屋にいたでしょう」だの、かまをかけてみるという手もある。

 煮詰まるタイプになら、「煮詰まってますかー」とストレートにいっちゃう手もある。こうして、いろいろな第一声を使い分けることによって、「こやつできるな」と思わせないといけない。物書きにバカにされるようでは、対等に仕事はできない。

 おかしなもので、ふつうの仕事なら、発注者のほうがえらい態度をとるが、ものづくりの世界では、そうはならない。

 ネジを10万本発注し、納品の日にあがってこない場合には「どーなってんだ? このやろー」という態度で電話をするだろう。出前の食い物が遅いときにも、同じ態度となる。

 ところが、作品があがってこないとき、締め切りの日をすぎていても「お疲れさまですぅ」では、まずいのではないだろうか? なにも現状を把握していない、ウニ頭と思われてもしかたがないのだ。

 現在はマニュアル社会だ。子どものころから試験においても、傾向と対策がマニュアル化されている。自分の考えで行動するよりも、あるパターンに乗ってしまったほうが楽にすごせるようになっている。

 こうしたことから、だれもが、同じような行動をし、同じようなことしか喋らなくなってしまった。あたりさわりのない行動をとっていれば、自分が摩擦を起こすこともないと考えているのだ。

 これはある部分、うまくいくかもしれないが、予期せぬ事態となった場合には、あっという間にトラブルは大きくなっていく。自分の頭で考えて行動してもらいたいものである。

 第一声が「お疲れさまですぅ」とくると、自分の頭で考えてないなと思う。そうしたタイプの編集者と仕事をしていくと考えると、どっと「疲れ」がでてくる。

| | トラックバック (0)

1999年8月 9日 (月)

夏・麦わら帽子・ハンカチ

 時間は朝10時すぎ、夏の空はすでにぬけるように青く、わきたつような雲が成長をつづけている。日差しが地面に短く、しかもくっきりとした影をつくり、道路にはゆらゆらとした陽炎が立ち上っている。Yは、食パン2枚をラップにつつみ、木炭といっしょに鞄に押しこむと、カルトンを脇に抱え、家を飛びだした。そのまま、バス停へと急いだ。
 Yの通っている高校は、家のすぐ近くのバス停から、乗り換えなしで高校正門前につくバスで通えた。だが、その直通バスは、朝の時間をすぎると、1時間に1本の割合でしか走らなくなる。10時台の1本を逃すと、他のバスでは、途中の大きな駅で乗り換えをしないといけなくなってしまうこともあったが、他の理由もあって、急いでいるのだった。
 すでに8月の頭となっていた。高校はもちろん夏休みだ。だが、Yは高校の美術室に用事があった。卒業後の進路を、この夏休み前にやっとはっきりさせたのだった。いわく「美大を受ける」ということだった。
 美大では、学科の試験よりも前に実技の試験がある。そのときに問われるものは、デッサン力だ。ふつうは、デッサンを習いに、美術予備校の夏期講習などにでかけるのだが、Yの親は、美大へいくことに反対だった。
 そこで、金のかかる予備校へはいかずに、美術の先生に話をつけ、夏休みの間、美術室で石膏デッサンをしてもかまわないという約束をとりつけたのだ。
 イーゼルは美術室に備えつけのものがあったが、カルトンと消しゴムがわりの食パン、木炭は自前だった。そこにある石膏像、アリアドネやアグリッパ、大顔面といったものを、ながめ、木炭で比率を測りながら、木炭紙に定着させていった。
 開け放した窓からは入道雲がみえ、セミの声がやかましく飛びこんできた。そして、なまぬるい風がゆるゆると吹き抜けていく。
 消しゴムに使うパンは、中央部分だけだ。まわりの耳の部分は、昼食がわりにもなった。こうして、昼時から夕方まで、美術室で1人デッサンをつづけていた。目標は3日で1枚。夏休み中にざっと10枚は仕上げるつもりでいた。
 高校へのバスは、国道を抜けると、細い商店街へとはいっていく、そして、ここには市内でも有数の大きな団地があった。
 毎日、同じ時間のバスに乗っていると、ふだんとは違う人たちの姿を見ることになる。通学時間帯は、通っている高校の生徒以外を車内に見かけることはまれだ。だが、学校が休みである現在では、同じ高校の生徒に会うこともない。
 通い初めて何日か経った時、いつも同じバスに、団地の停留所から乗ってくる少女に気づいた。毎日、同じバスに乗っていれば、また乗ってきたなということに気づくのはたやすいことだ。
 長い髪を後ろに束ね、抜けるように白い肌をしていた。頬にはわずかにそばかすがあった。そして、ほんの少し身体にハンデがあるらしく、脚をひきずるようにして歩いていた。麦わら帽子が印象的な、とてもかわいらしい娘だった。
 高校へデッサンに通うことよりも、その娘をみるのが楽しかったのかもしれない。そのバスの時間にあわせ、自然と他の時間帯のバスには乗らないようになった。
 向こうも気がついていたのかもしれない。毎日、同じバスで同じ場所に座っている(家はバスの始発駅の近くなので、だいたい同じ場所に座れた)、大きな画材を抱えた学生服姿の男--家には学校へ補習へ行くということにしてあるので、白い半袖シャツと学生服のズボンで出かけていた--が座っているのだ。いやでも目立つ。
 彼女は、いつも、バスの前部に座った。そして、その後ろ姿や横顔を見ながら、時間を過ごした。降りるのは彼女のほうが先だ。
 そうした十何日かがすぎ、変わりもなく同じバスで通っていた。Yの中では、少女とは、すでに同じバス仲間という意識すら持っていた。
 そんなある日、いつもとは違うことが起きた。よく晴れた日差しの暑い日だった。いつもの停留所から彼女が乗ってくると、ふだんは前に座るのに、そのまま車内後部の座席へと歩いていった。初めて、Yは後ろから見られることになった。
 彼女の姿を見られないことに、Yは軽い失望をおぼえた。そして、彼女の降りる停留所へきた。Yの脇を彼女が通り過ぎようとした時だった。彼女の手から、何か白いものが落ちた。それはガーゼのハンカチだった。うっかりとしてというには、不自然な落下だった。
 Yは一瞬ハンカチをながめた、そしてどうしようかと考えている隙に、後ろの席にいたおばさんが「ちょっとあんた落としたわよ」とすばやくハンカチを拾い彼女に渡した。彼女はとまどったように「ありがとうございます」と微笑むと、そのままバスのタラップを降りていった。
 その夜、Yの父親が倒れた。緊急に手術ということになり、営んでいた青果店も廃業することになった。いろいろと手伝わなくてはならず、デッサンをしに学校へいくこともその日が最後になった。それ以後、彼女を見かけたことはない。
 それから25年の月日が流れた。夏の匂いを感じる時、あの時のあれは何だったのだろうと、ふと思い出すことがある。
 ひょっとして、何かのきっかけづくりのためのものだったのか、それとも、たんに不注意で落としてしまっただけなのか。今となっては知る術もない。
 あの時、わずかな勇気があれば、今の人生とは違う道を歩いていたのかもしれない。だが、Yはぼそぼそと小声でつぶやいてみる。「おれがそんなにもてるわきゃないよ」
 わかっちゃいるけど……。 

| | トラックバック (0)

1999年8月16日 (月)

代用食の日

 子どもの頃、わが家では終戦の日になると 、きまってある食べ物がだされた。
 それは「すいとん」なんである。戦争中には米の代用食として食べられていたものだ。小麦粉を水で溶き、おつゆのなかへいれて固めたものというのが基本的な姿だ。
 親にしてみれば、戦争の記憶を風化させないため、という意図があったとのことだが、とにかく8月15日には「すいとん」ときまっていた。ふつう、こうした熱い汁物は、冬場のものなのだが、暑い夏にこうしたものがだされるのが、子どもの頃にはわからなかったのだ。
 家でつくる「すいとん」には二種類あって、味噌仕立てのものと、醤油仕立てのものがあった。どちらになるかは、その時になってみないとわからない。
 戦争(もちろんこれは第二次世界大戦のことだ。京都人がこないだの戦争のことを応仁の乱といったのにはひっくりかえったが)を体験した人々によれば、代用食であった「すいとん」はひどくまずいものだったとのことだ。
 野菜もなく、庭にはえているような雑草をなべで煮て、だしもなく、ただのうすい醤油味や塩味のつゆに、小麦粉をゆるく溶いたものを流しこんだものがうまくないのは、よくわかる。
 それでも、戦時中は、それを食べるしか食べ物はなかったのだ。母親は、少女時代が戦争末期だったとのことだが、成長期で食べ盛りの時に食べるものがなかった。
 疎開をしていた先では、大きな釜でごはんを炊いていたそうだが、その釜の底にできた「おこげ」でもいいから食べさせてほしいと頼んだという。もちろん、食べさせてくれるわけはない。
 そんな記憶が大きく残っているからだろうか、終戦の日には「すいとん」しか食べさせないという風習がわが家にできることとなった。そして、戦争中は食べるものがなかったという話もいっしょに語られるのだ。
 なにも具のない汁に「すいとん」だけでは、いかにもまずそうだが、わが家のものには野菜がはいっていた。夏場なので、キャベツ、にんじんといったものにくわえ、あと数種類の野菜がはいっていたのではないかと思う。
 私がまだ幼いころには、戦争が終わってから、まだ十数年しかたっていなかった。そのころにつくられる「すいとん」は、まだ戦争中のものに近かったのだと思う。
 ところがである。戦後も終わり20年以上の月日が流れると、時代は高度成長期となっていた。家庭での食べ物も豪華になり、食べられるものも変化していた。家庭の食事でも洋食がつくられるようになり、ハンバーグだのグラタンだの、コロッケといったものが、食卓にのるようになっていたのだ。
 こんな時代になると、家でつくる「すいとん」も昔のままというわけにはいかない。すいとんの小麦粉の生地には、だしがくわえられるようになった。さらには、卵もはいり、後年には、バターをねりこむという、アメリカの進駐軍に占領され、洗脳されたのかと思われることもくわえられ、わりと「うまいもの」に変身してしまったのだ。
 だいたい、1年に一回しか食べられないものだったので、子どものころには、この「すいとんの日」がくるのが、待ち遠しくなっていた。なぜ、一年に一回しか食べないのか不思議だった。もっとつくってくれればいいのにと思っていたが、大きくなるにしたがって、ようやく理由がわかってきた。
「すいとん」のつくられるのは8月15日であり、その日は「終戦の日」であり、日本がアメリカその他を相手にした戦争に負けた日である。だから、戦争の悲惨さを忘れないために、貧しくまずいものを食べ、いつまでも記憶にとどめようという意図があったのだ。
 だが、状況がゆるすなら、人はいつでも「うまいもの」を食べたがるらしい。そんなわけで、姿形は、「すいとん」なのだが、その実体はわりとうまいものという建前と本音状態になってしまったのだ。
 しかし、まずいままにしておかないと、これを食べるために、毎月「終戦の日」あればいいのにと子どもが考えてしまう危険もある。「終戦記念」もとい「終戦祈念」の日は、やっぱり1年に1回あるだけで十分すぎるほどだ。 

| | トラックバック (0)

代用食の日

 子どもの頃、わが家では終戦の日になると 、きまってある食べ物がだされた。
 それは「すいとん」なんである。戦争中には米の代用食として食べられていたものだ。小麦粉を水で溶き、おつゆのなかへいれて固めたものというのが基本的な姿だ。
 親にしてみれば、戦争の記憶を風化させないため、という意図があったとのことだが、とにかく8月15日には「すいとん」ときまっていた。ふつう、こうした熱い汁物は、冬場のものなのだが、暑い夏にこうしたものがだされるのが、子どもの頃にはわからなかったのだ。
 家でつくる「すいとん」には二種類あって、味噌仕立てのものと、醤油仕立てのものがあった。どちらになるかは、その時になってみないとわからない。
 戦争(もちろんこれは第二次世界大戦のことだ。京都人がこないだの戦争のことを応仁の乱といったのにはひっくりかえったが)を体験した人々によれば、代用食であった「すいとん」はひどくまずいものだったとのことだ。
 野菜もなく、庭にはえているような雑草をなべで煮て、だしもなく、ただのうすい醤油味や塩味のつゆに、小麦粉をゆるく溶いたものを流しこんだものがうまくないのは、よくわかる。
 それでも、戦時中は、それを食べるしか食べ物はなかったのだ。母親は、少女時代が戦争末期だったとのことだが、成長期で食べ盛りの時に食べるものがなかった。
 疎開をしていた先では、大きな釜でごはんを炊いていたそうだが、その釜の底にできた「おこげ」でもいいから食べさせてほしいと頼んだという。もちろん、食べさせてくれるわけはない。
 そんな記憶が大きく残っているからだろうか、終戦の日には「すいとん」しか食べさせないという風習がわが家にできることとなった。そして、戦争中は食べるものがなかったという話もいっしょに語られるのだ。
 なにも具のない汁に「すいとん」だけでは、いかにもまずそうだが、わが家のものには野菜がはいっていた。夏場なので、キャベツ、にんじんといったものにくわえ、あと数種類の野菜がはいっていたのではないかと思う。
 私がまだ幼いころには、戦争が終わってから、まだ十数年しかたっていなかった。そのころにつくられる「すいとん」は、まだ戦争中のものに近かったのだと思う。
 ところがである。戦後も終わり20年以上の月日が流れると、時代は高度成長期となっていた。家庭での食べ物も豪華になり、食べられるものも変化していた。家庭の食事でも洋食がつくられるようになり、ハンバーグだのグラタンだの、コロッケといったものが、食卓にのるようになっていたのだ。
 こんな時代になると、家でつくる「すいとん」も昔のままというわけにはいかない。すいとんの小麦粉の生地には、だしがくわえられるようになった。さらには、卵もはいり、後年には、バターをねりこむという、アメリカの進駐軍に占領され、洗脳されたのかと思われることもくわえられ、わりと「うまいもの」に変身してしまったのだ。
 だいたい、1年に一回しか食べられないものだったので、子どものころには、この「すいとんの日」がくるのが、待ち遠しくなっていた。なぜ、一年に一回しか食べないのか不思議だった。もっとつくってくれればいいのにと思っていたが、大きくなるにしたがって、ようやく理由がわかってきた。
「すいとん」のつくられるのは8月15日であり、その日は「終戦の日」であり、日本がアメリカその他を相手にした戦争に負けた日である。だから、戦争の悲惨さを忘れないために、貧しくまずいものを食べ、いつまでも記憶にとどめようという意図があったのだ。
 だが、状況がゆるすなら、人はいつでも「うまいもの」を食べたがるらしい。そんなわけで、姿形は、「すいとん」なのだが、その実体はわりとうまいものという建前と本音状態になってしまったのだ。
 しかし、まずいままにしておかないと、これを食べるために、毎月「終戦の日」あればいいのにと子どもが考えてしまう危険もある。「終戦記念」もとい「終戦祈念」の日は、やっぱり1年に1回あるだけで十分すぎるほどだ。 

| | トラックバック (0)

1999年8月23日 (月)

遠く獣へと連なる

 人が物を食べる姿をみていると、さびしい気分になる。
 そこには、万物の霊長だの、知性だのといったお題目がいっぺんになくなってしまう人間の姿がある。
 つまるところ、なにをほざいても、人は、そのルーツを隠すことはできないのだ。遠く獣へと連なる、その過去を消すことはできない。物を食べ、排泄をし、生殖をするといった動物的な部分は隠しようがないのだ。
 人は、その複雑に発達した脳によって、さまざまな、動物にはない能力を持つこととなった。思考をし、未来を予測し、哲学的にふるまう。形のないものにまで考えをめぐらすことができる。抽象的な概念といったものを扱えるのは、高度に発達した脳のなせる技だ。
 考えることによってのみ生きる。過去よりつづく賢人たちの理想はそこにあったのではないだろうか?
 人は、獣に別れをつげ、神への道をさぐろうという奢った考えをもっていたのではないか。そこで、できるだけ、獣とは違う習慣を必要としたのではないか。
 裸でいないこと。獣であれば、道ばたでしてもおかしくない排泄行為、生殖行為、こうしたものを眼にみえないところでするものとして追いやっていった。
 獣ではないのだ。これが人間の優越的な考えだった。しかし、食べることは隠せない。日常において、隠れてものを食べることはできない。そこで、食べることを文化と規定した。
 食事作法やマナーをつくり、獣とは違うのだということを強調してきたが、つまるところは生きていくための栄養素、エネルギーの補給のためにものを食べる。これは獣となんら変わりのない行為だ。
 豪華な食事? ミシュランの三ツ星? 芸術品? それがなんだというのだ。自らの動物性を隠すために、食べるものを芸術などと賞し、それを食すことは、獣と同一のことではないと宣言しても愚かなことだ。
 ただの動物のなれの果てなのだ。人とは。
 動物といっしょにされることはいやがり、かといって、人間を越えるものにもなれない悲しい姿が浮かび上がってくる。それを再確認させてくれるのが、ものを食べるという行為だ。
 他に、こうした悲しい気分になったものに、ミイラがある。古代中国では、死して後、ミイラにしておけば、仙人となり、人間を越えた存在となることが信じられている時期があった。その時代には、豪族や身分の高い人々のミイラが数多くつくられている。
 それが、4000年以上たった現在発掘されても、ミイラは人の形を崩していない。 
 少し前、中国の砂漠地帯から発掘された、夫婦のミイラが展示されていた。それは、鰹節のようなものだったが、痛ましいと思ったのは、それらが全裸の形で展示されていたことだ。もはや身体全体はひからびてしまっているが、男や女の特徴である生殖器もそのままの状態だった。
 ひからびてはいるが、形ははっきりとわかる。女のほうは、ぽっかりと穴が開いているという状態だった。
 4000年以上前、この夫婦は、こんな形で衆知の前にさらけだされようとは思ってもいなかったに違いない。ミイラになったということは、身分も高かったに違いない。そして夫が死に、それと同時に妻もミイラ化されてしまったのだろう。当時の技術で、死した後、仙人として生まれ変わるなどと説得されたのだろう。しかし、実体は、4000年以上後に、人を越えるものにもなれず見せ物となっただけなのである。
 人は人以外のものになることはできない。それは、獣へと連なる暗い歴史を含んだものだ。そして、獣であることを再検討しなければ、現在おきている、いじめなど、さまざまな事件の一端が理解できないのではないだろうか。

| | トラックバック (0)

1999年8月30日 (月)

ゴールデンコンビ

 この夏には、仕事の都合で印刷所にカンヅメになるということをした。カンヅメとは、文字通り、そこにずっといなくてはならない。
 食事の時間ぐらいは、シャバの空気が吸えるだろうと思っていたら、そこには社員食堂があったのだ。これで、外へでるという口実は通用しなくなった。
 勤めたことはあるが、社員食堂のある会社に勤めたことはない。いちど出社すれば10日間は帰れなくなる会社や、まったく自由に出社しても、文句をいわれないようなところでしか働いてこなかった。会社にタイムカードがあっても、いちども押したことがない。時間で金がもらえるわけでもなく、残業にも金はつかない。ようは、仕事があがりさえすればいいのだろうというすさんだ気持ちになっていたからだ。
 そんなことだから、社員食堂というのは新鮮だった。そうした施設は、高校の学食いらいのことだった。
 その日のメニューは、シュウマイ、キャベツ、焼きそば、春雨の中華風酢の物にごはん。それとみそ汁とお新香だった。食べているうちに、高校の学食が懐かしく思い出された。
 高校時代、家では弁当をつくってくれなかったので、昼飯は学食ですます。卒業時のメニューは、Aランチ200円、Bランチ180円、カレーライス150円、そば、うどんが50円だった。これに生卵が30円で、月見そば、うどんにすると80円となった。また、カレーをかけてカレーそば、うどんにすると100円だった。
 Aランチは弁当箱スタイルで、日替わりでおかずが2品はついていた。たとえば、まがいものだらけのハンバーグと、ちくわの天ぷらといったものだ。これにわずかばかりのキャベツの千切りと、昆布の佃煮といった内容である。
 Bランチは、おかずとメシの2皿がセットになっていた。これも日替わりだが、おかずはちくわの天ぷらとかアジフライといったものと、千切りキャベツといったものだ。
 カレーライスは、ほとんどカレー粉がつかわれていないような、小麦粉によるとろみのついた黄色いドロっとしたもので、辛味をおぎなうために、唐辛子粉が入っていた。具はほとんどタマネギとジャガイモとニンジンで、肉の姿を見るのは、よほど幸運だった場合だけだ。
 これとそば、うどんは、かけの状態で、刻んだネギと天カスは自分でいれた。
 これ以外に、夏には冷やし中華もあったが、ほとんど食べた記憶がない。
 小遣いはもらっていなかったので、毎朝、家をでる時に300円をもらってでかけた。200円のAランチとジュース(30円だった)などを飲める金額ということで手渡されていたのだ。学校までのバスの定期はあるので、これだけの金があれば、立派に1日学校ですごすことができた。残った金が小遣いとなった。これを貯めて本を買ったりしていたわけだ。
 200円という予算で食べるというと、最高でもAランチを頼むということになるのだが、Aランチはそれほど食べた記憶がない。学食でのいちばんの組み合わせは「カレーとそば」に決まっていたのだ。
 Aランチはおかずは多いが全体の量が少ない。Bランチはおかずに難ありといったところ。そば、うどんだけでは心もとない。カレーもそれだけでは単調な食い物だ。こうした不満を解決してくれるのが「カレーとそば」なんである。
 学食は出足が勝負だ。4時限めが終わって、10分もしてたどりつけば、ほとんどの食い物が売り切れている。残っているのはそば、うどんという状態だ。そうなると、やけになってそば、うどんの両方を注文し、卵を入れて(この時間だとネギや天カスも終わっていることが多い)、2杯たいらげるしかない。だが、これはすぐに腹がへるのである。6時限めが終わって、クラブ活動のころになると、すでに腹が減っているのだ。
 その点、カレーとそばの組み合わせなら、クラブが終わる6時(通っていた高校には定時制があったので、それ以上はいられなかったのだ)まで、じゅうぶん腹もちするのである。だから、4時限めが終われば素早く学食をめざす。授業が長引くと絶望的な気分となった。反対に早く終われば天国にいる気分だ。4時限め終了時刻より5分早く学食へいけば、食べたいものがなんでも買えた。
 安さと量を満足させるものとして(うまさは問わない)、カレーとそばの組み合わせは、男子生徒のなかではいちばんの人気だった。ゴールデンコンビと聞くと、学食の黄色いカレーとそばの組み合わせが懐かしく思い出される。黄色いカレーの色はまさに腹ぺこ少年にとっては黄金色だったのだ。
 こうした、味も問わず、カレーとそばという量主体の組み合わせで食べられるのは、若い時だけのものだ。歳をとると、量が食えなくなってくるので、うまいものをほんのちょっとだけ食べたいという気持ちが強くなってくる。たまには、カレーとそばを食べてみようかなどと、ふと考えたりもするが、若さはもう戻ってはこないのだ。

| | トラックバック (0)

« 1999年7月 | トップページ | 1999年9月 »