侍には葉隠というバイブルがあった
今回のW杯サッカー日本代表チームはサムライジャパンだか、サムライブルーだかなんだかしらないが、侍をイメージしていたという。ユニフォームも侍の持つ刀をイメージしたということだ。
たいへん結構だが、ひとつだけ理解してなかったことがある。侍は恥を受けた場合には死して報いるのだ。つまりは切腹するわけだ。いつでも死に場所を探している異常な人生観を持っている人といえる。だから尊ばれるのである。
死ねない人間、生き残りたいと考えるのはクロサワ描くところのヒャクショーたちだ。
今回の日本の戦いで、侍と言われた者たちは恥を受けてないと感じていたのだろうか?
悔いはない、胸を張って生きよとは指揮官の弁だが、侍であるならそれも恥ずかしい生き方であろう。
結果的に、誰もが腹を切ろうとしなかった。とくに君主たる者がヒャクショーに成り下がっていたのである。つられていっしょに合戦したものも大変なヒャクショーぶりを発揮してくれている。
誰かが腹を切らないとすまない。そんな日本人の美意識を持っていたのが、日本嫌いの選手だったところが面白い。彼は日本という国を憎み、海外へ出た。そして気づいたのだ。実は日本を愛していたことを。
その彼のことをとやかく言う資格は、同じ合戦をした者にはない。「早い」だの「惜しい」だの「まだやれる」はトンチンカンな発言だ。
責任を持って腹を切れる戦いをしたのかどうか? 彼は合戦仲間にもそれをつきつけたのだ。
日本人の特性は「恥」の文化だった。「恥」を受けるぐらいら、死んだほうがましと考えるのだ。これが、外国人の恐怖となっていた。
いまの日本は、「恥」を忘れ、下卑た社会となっている。国内にいれば気がつかないだろう。他人がしていれば自分もOKと考える国民性からだ。
だから、通勤電車内での化粧や飲食、通話といった事態となる。これらは見苦しく恥ずかしい。
こうした全てをひっくるめて、彼は失望をしたのではないか?
今から38年前、つぎのオリンピックを目前としながらマラソンの円谷幸吉は自らの命を絶った。「もう走れない」というつぶやきを残してのことだ。
国を背負うことの重さは、侍の心を持たないとわからないのかもしれない。今回の彼は命までは差し出さなかった。それはたいへん嬉しいことだ。本当に死してしまったら、またの諸海外との戦いのときに力を貸してもらえない。
「きゃー」とか「えー?」とか「残念です」などといったインタビューへのコメントを残している数多くのヒャクショーたちよ。彼のメッセージを受け止めよ。
「武士は食わねど高楊枝」なのだ。「勝ち組」や「負け組」などという言葉は、どれだけ卑しいか考えてみるといいだろう。
| 固定リンク | トラックバック (0)
